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わかったつもり 読解力がつかない本当の原因(西林 克彦)

「わかる」の分水嶺

 以前から「わかったつもり」の弊害について気になっていたのですが、似たような問題意識のタイトルの本があったので手にとってみました。
 内容は、「読解力」(文章に書かれていることの理解)にフォーカスしているので、私の関心と完全にスコープが一致しているわけではないのですが、かなり頭の整理にはなりました。

 本書の著者の西林氏は、まず、「わかった」という状態について、以下のように説明しています。

「わかる」ためには、それまでに獲得している知識を無意識のうちに使っている。そして、それによって文の「部分間の関連」を理解しており、部分間の関連がつくと「わかった」気持ちになる。

 本書であげられている「なるほど」という例をお示しします。

(p31-32より引用)
①サリーがアイロンをかけたので、シャツはきれいだった。
②サリーがアイロンをかけたので、シャツはしわくちゃだった。

 ①は、そのとおりです。ここでは、アイロンはしわを伸ばすための道具だという周知の事実が背景にあります。
 ②は、サリーはアイロンかけが不得手だという特別な知識の前提が必要です。この前提があってはじめて「部分(前後)間の関連」がつくのです。

(p32-33より引用)
③小銭がなかったので、車を持って行かれた。
④布が破れたので、干し草の山が重要であった。

 このあたりの例示は秀逸だと思います。
 この2つの文を理解するには、ヒントの言葉が必要でしょう。③は「パーキングメーター」、④は「パラシュート」。逆に、このヒントがあるとすっと理解が進んでいきます。読む人の納得感が得られやすい親切な説明だと思います。

 こういったわかりやすい例を豊富に取り入れて、西林氏は「わかる」ということと「よりわかる」ということを説明して行きます。
 西林氏の目指している「読解力の向上(=読みを深める)」は、結局のところ、「読み」の場合だけではなく、「よりわかる」という状態を目指しているという意味で、すべての意思伝達(コミュニケーション)において、その質の向上に役立つものです。

「わかったつもり」の弊害

 さて、本書のテーマの「わかったつもり」ですが、まずは以下のようにissueを提起します。

(p41より引用) 「読む」という行為の障害は、「わからない」ことだと一般には考えられています。このことは、「わからない」から「わかる」に達する過程では、そのとおりです。
 しかし、「かわる」から「よりわかる」に至る過程における「読む」という行為の主たる障害は、「わかったつもり」なのです。「わかったつもり」が、そこから先の探索活動を妨害するからです。

 著者のいう「わかったつもり」にはさまざまなパターンがあります。
 「結果から」とか「最初から」とか、それぞれ具体的な構造を例をもって示していますが、私が気づかされたのは、「『いろいろ』というわかったつもり」でした。「いろいろある」と思った瞬間にその先への追求心がなくなってしまうというのはそのとおりで、気をつけなくてはなりません。

(p149より引用) 多様性に圧倒された結果、「いろいろある」と思ったとすれば、人はそれ以上の追求を止めてしまいます。または、これ以上探求するのが面倒で、「いろいろある」と思うことによって、けりをつけたつもりになるということもあるでしょう。これらが「いろいろある」という文脈の魔力がもたらす結果です。・・・うまく分類や整理ができそうにないとき、「いろいろある」という言い方が言い訳として使われるのではないでしょうか。

 また、「わかったつもり」の典型的なパターンとして「ステレオタイプの当てはめ」をあげています。

(p155より引用) 読み手が自分の持っている「ステレオタイプのスキーマ」を文章に簡単・粗雑に当てはめてしまうことによって、間違った「わかったつもり」や不充分な「わかったつもり」を作り出してしまうことがあるのだということを、私たちは、はっきりと確認しておく必要があります。

 このステレオタイプには、いわゆる過去の記憶・先入観等の「思い込み」が根底にあるものもありますし、「善きもの」「無難」「当たり障りのない」といった情緒的な概念によるものもあります。これらの「受け入れやすい概念」が「わかったつもり」に誘導するのです。

 こういった原因による「わかったつもり」状態を壊すのはなかなか大変です。
 まずは、意図的に意識することです。

(p169より引用) 自分は「わかっている」と思っているけれど、「わかったつもり」の状態にあるのだ、と明確に認識しておくことが重要です。

 なんとかして「わかったつもり」を壊すことができれば、そこに今まで気づかなかった「矛盾」や「疑問」が出てきます。この新たな「気づき」が極めて重要です。

(p119より引用) このような「矛盾」や「疑問」は、次の「よりよくわかる」ための契機となるものです。「矛盾」や「疑問」はネガティブに捉えられることも少なくないのですが、むしろ次の解決すべき問題を発見できたという意味で、「認識の進展」という観点からはポジティブな存在なのです。

 あと、本書の最後の方に「解釈の自由と制約」という章があります。
 この章では、「わかったつもり」の打破による解釈の深まりというコンテクストの中で、現代の国語教育の課題を提起しています。

 学生時代の国語教育における「読解」のジャンルでは、ほとんどの人が納得しきれない気持ちをいだいたことがあるのではないかと思います。
 たとえば、典型的なものとしては、文章題のテストでよくある「・・・の説明として最も適切なものを、以下の1~5のうちからひとつ選べ」といった問題の場合です。「作者の解釈」が明確でない以上「出題者の解釈」と「自分の解釈」とどちらが正しいとはいえないだろう・・・という不信感です。

(p206より引用) 整合性のある解釈は、複数の存在が可能です。したがって、唯一絶対正しいという解釈は存在しません。しかし、ある解釈を「整合性がない」という観点から否定することは論理的にも実際にも可能で、しかも簡単です。ですから、「正しい」と「間違っている」という判定は、シンメトリーなものではありません。後者は明確に判定できますが、前者は「整合性はある」とか「間違っているとは言えない」という判定しかできないのです。

 このあたりのくだりは、自分にも同じような思いをした経験があるだけに、なかなか興味深かったです。


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