パパラギ (岡崎 照男 訳)
先に読んだ「知的複眼思考法」の巻末のリーディング・ガイドで紹介されていたので、久しぶりに読み直してみました。
最初にこの本を読んだのは学生のときだったと思います。当時もかなり流行りました。このBlogをご覧のみなさんの中にも読まれた方はかなりいるのではないでしょうか。
この本は、1920年、第一次世界大戦が終結して間もないドイツで初版が発行されました。副題は「はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」とあります。
この本で対比されているパパラギ(ヨーロッパ人)の世界とツイアビの国(南太平洋・西サモア)の世界の間には、常識や価値観の違いというか、もっと根本的なところの違い、人の心の持ち様の違いがあるように感じました。
もちろん、どちらの世界がいい・悪いというものではありません。良し悪しは、同じ土俵の中での判断軸が基準になるからです。
「衣服」「家や都市」「お金」「物」「時間」「所有」「機械」「職業」「新聞」「思想」・・・様々な対象についてツイアビは語っています。
この本は、読む人によって感じたり気づいたりするところがまちまちになるはずです。人の想いの根本的なところに触れる中味だからです。
ちなみに、私が気になったフレーズは次の部分でした。
(p53より引用) 物がたくさんなければ暮らしてゆけないのは、貧しいからだ。大いなる心によって造られたものが乏しいからだ。パパラギは貧しい。だから物に憑かれている。物なしにはもう生きてゆけない。
(p86より引用) 職業を持つとは、いつでもひとつのこと、同じことをくり返すという意味である。・・・だからこんなこともよく起こる。たいていのパパラギが、その職業ですることのほかは何もできない。
(p92より引用) すべての職業は、それだけでは不完全なものなのだ。なぜなら人間は手だけ、足だけでなく、頭だけでもない。みんなをいっしょにまとめていくのが人間なのだ。手も足も頭も、みんないっしょになりたがっている。からだの全部、心の全部がいっしょに働いて、はじめて人の心はすこやかな喜びを感じる。
(p113より引用) 同じようにして子どもたちの頭にも、詰めこんで詰めこめるだけの思想が押しこまれる。・・・たいていの子はたくさんの思想を頭の中に積みすぎてしまい、もうどこにもすき間はなく、光さえもうさしてはこない。そしてこのことを「教育する」といい、このような頭の混乱がつづく状態を「教養」と呼び、それが国じゅう行きわたっている。
ツイアビが語っていることは、一言で言えば「のびやかな豊かな心」を持つことだと思いますし、それは、ただただ当たり前の自然な姿のような気もします。今の時代、ストレスやフリクションがあればあるほど、そういう気持ちに共感を感じる機会は多いでしょう。
しかしながら、今の生活の中ではツイアビのように振舞うことは(少なくとも私には)できないようです。ツイアビの価値観・世界観に諸手を挙げて賛成しているわけでもありません。やはり自分自身、今の時代・今の世界の内側に「視座」を置いてものごとを見たり聞いたり感じたりしているという「無意識の前提」からは逃れ得ないと思います。
せめて、時折、「意識」して今の世界の外側に「視座」をおき、そこから眺めることにも心がけましょう。
この本は、内容の正否・当否・是非よりも、多面的な物事の見方・感じ方・考え方に導く「刺激」としての価値をもったものです。
そういう意味では、極めて大事な本だと思います。
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