知的複眼思考法 (苅谷 剛彦)
正解信仰
(p50より引用) 議論をしていてわからないことがあると「よく勉強していないのでわかりません」と弁解する学生がいます。自分で分からないことにぶつかると、勉強不足・知識不足だと感じてしまうのです。・・・「知らないから、わからない」という勉強不足症候群の症状は、正解がどこかに書かれているのを見つければ、それでわかったことになるという正解信仰の裏返しです。
ひとつの問題は、ここでの「勉強(不足)」の対象が何かということです。勉強の対象が「インスタンス」だけなのか、「プロセス」や「リレーション」も含んだものなのか。
実データだけ貯めこんだ頭からのアウトプットは「完全一致」した結果物だけです。すなわち、インプットしたAに対して「合致したA」を出力して満足してしまいます。
「考えるプロセス」をいくつももっていれば、Aというインプットから、Aはもちろん A´やa、α、あ・・・といったAの変化形や、その他に、B→C→Dといった発展系のアウトプットも得られるのです。
(p52より引用) 「知識があればわかる」とか、「調べればわかる」といった、知識の獲得によってすぐに解決できるような問題ではなく、どうすれば知識と思考とを関係づけることができるか-簡単にいうと、知っていることと考えることとを結びつけるやりかたの問題です。
「どこかにある答を探し出す」のと、「どこにもない答を考え出す」のとは全く別物です。
前者は、他人の足跡を辿ることですが、後者は自分で道を拓くことです。
無意識の世界観
(p158より引用) 立場によって拘束された見かたの限界ということを明らかにする。そして、その限界を示すことで、その前提のまちがいを論じていくのです。
たとえば、ある人が「大学を卒業しても定職についていない若者が多い」と言ったとします。そのときこの人の頭の中には、たとえば、
・「大学を卒業すると働くのが当然だ」 とか
・「定職についていないのは悪いことだ」 とか
・「そういう若者が増えることは問題だ」 とか
という「考えの基本となる前提(=世界観)」が存在しています。その前提(=世界観)に則ってそういう台詞を発しているのです。
したがって、先入観にとらわれない根本的な議論をするためには、それぞれの当事者の世界観の是非にまで遡る必要があります。議論の相手のそもそもの世界観を意識し、その違いを把握することがスタートラインになるのです。
そのことは「議論」の場合だけでなく、ごくふつうのコミュニケーションの際にも大事です。
もちろんふつうのコミュニケーションの場合は、相手の世界観を論ずる(非難したり否定したりする)必要はありません。世界観の違いの認識したうえで、それを踏まえたやりとりができれば十分だと思います。
問いの分解
この本は、極めて丁寧に「基本的な思考法」を解説したものです。
以前、このBlogでもドイツの哲学者ショウペンハウエルは「自分の頭で考えること」を主張し続けているとご紹介しました。レベルや対象は異なるかもしれませんが、実践的な思考プロセスのヒントが、この本には豊富に盛り込まれています。
その目指すところは、ものごとを多面的にとらえる思考であり、著者はそれを「知的複眼思考法」と名づけています。過去の「常識」や安易な「ステレオタイプ的発想」に引きずられず、自分で考えるための具体的な方法をいくつもの実例を挙げて説明しています。
その方法のひとつは「問いを立てる」ということです。
(p181より引用) 最初の問いをいくつかの問いに分解したり、関連する問いを新たに探していく、問いの分解と展開によって、考えを誘発する問いを得ることができるのです。
問いの分解の具体的方法としては、「主語の分解」を勧めています。
たとえば、「日本企業は・・・」という命題があると、それを「日本の製造業は・・・」とか「日本の非製造業は・・・」とかに分けて考えを進めてみる、また、「日本の大企業は・・・」とか「日本の中小企業は・・・」とかに分けて検討してみるといった具合です。
また、問いの展開の具体的方法としては、「なぜという『理由』をたずねる問い」と「どうなっているかという『実態』をたずねる問い」を組み合わせて展開していくというやり方を提示しています。
確かに、「なぜ」「なぜ」・・・を詰めていっても行き詰ることが往々にしてあります。そういう場合は、「じゃあ、実態はどうなっているんだ」と事実を再度確認するのです。そうしていくつかの事実を確認すると、「それじゃあ、どうしてそういう実態になっているんだ」と「なぜの深堀り」の再スタートができるのです。
この本は「How To本」とも言えますが、本質的な考える姿勢を教えてくれています。課題を抱えた読者を具体的に意識してこれだけ丁寧に説明してくれている本はめずらしいと思います。