権利のための闘争 (イェーリング)
手段としての闘争
イェーリング(Rudolf von Jhering 1818~92)は、19世紀ドイツを代表する法学者です。
本書は、1872年ウィーン法律家協会での講演をもとに加筆したもので、理論的というより実践的・行動的な色合いの濃い内容です。それは、
(p29より引用) 権利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。
という冒頭の一文にも表れています。
イェーリングは、権利を侵害された場合、侵害された者は抵抗すべき、戦うべきと訴えます。私たちは、しばしば、「そうはいってもこのくらいは我慢しておこう」と安易に思ってしまいます。しかしながら、そういう態度もイェーリングは否定します。
(p49より引用) ・・・権利は権利を主張するか放棄するかを権利者の選択にゆだねているのだから、権利の立場からすれば争うのもよいし争わなくてもよいのだ、・・・この謬説と対立する私の説はこうである。人格そのものに挑戦する無礼な不法、権利を無視し人格を侮蔑するようなしかたでの権利侵害に対して抵抗することは、義務である。それは、まず、権利者の自分自身に対する義務である、-それは自己を倫理的存在として保存せよという命令に従うことにほかならないから。それは、また、国家共同体に対する義務である、-それは法が実現されるために必要なのだから。
権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である。
極めて強い意思が溢れんばかりの主張です。
ただ、同時に彼は、本書の「序文」で以下のようにも言っています。
(p15より引用) 私はどんな争いにおいても権利のための闘争を行なえと要請しているわけではなく、権利に対する攻撃が人格の蔑視を含む場合にのみ闘争に立ち上がることを求めているのである。譲歩と宥和の気持、寛大さと穏やかさ、和解とか権利主張の断念とかいったことについては、私の理論も十分にその意義を認めている。私の理論によって批判されるのは、臆病や不精や怠惰によって漫然と不法を甘受する態度だけである。
イェーリングも、ただ闇雲に戦えと訴えているのではありません。意思のない不作為を否定しているのです。
相互依存の関係
イェーリングは、この本の中で繰り返し「権利のために戦うべき」と訴えます。それは「権利者の義務」であると言います。
(p85より引用) こう主張しては言いすぎだろうか?攻撃された権利を守ることは権利者の自分自身に対する義務であるばかりでなく、国家共同体に対する義務でもある、と。・・・権利者は自分の権利を守ることによって同時に法律を守り、法律を守ることによって同時に国家共同体の不可欠の秩序を守るのだと言えるとすれば、権利者は国家共同体に対する義務として権利を守らなければならぬと言えないわけがあろうか?
自分の権利を守ることは、それのみの意義に止まらず、広く法律や国家共同体秩序を守ることに繋がるのです。
(p83より引用) 私法においては誰もが、それぞれの立場において法律を防衛し、自分の持場で法律の番人・執行者としての役割を果たすべき任務を負わされているのだ。かれがもつ具体的な権利は、自己の利害圏の中で法律のために格闘場に上がり不法と戦う権限として、国家によって付与されたものと・・・見ることができる。・・・自己の権利を主張する者は、その狭い範囲において法一般を防衛するのである。それゆえ、かれの行動の利害と結果は、かれ個人に限定されず、はるかに大きな範囲に及ぶ。
そして、彼は、社会秩序維持のためには、公権力に任せるだけでは不十分で、一人ひとりの権利の主張すなわち「権利のための戦い」が不可欠と考えます。
(p86より引用) ある国において法と正義が栄えるためには、裁判官がつねに裁判官席で待ち受けていること、警察が刑事を張り込ませていることだけでは足りない。誰もが、それぞれの役割を果たさなければならないのである。・・・権利という恵みを受けている者は誰でも、法律の力と威信を維持するためにそれぞれに貢献せねばならぬ。要するに、誰もが社会の利益のために権利を主張すべき生まれながらの戦士なのだ。
通常、「権利」は「法律」により規定され保護されていると考えられています。イェーリングの考えでは、以上のような一人ひとりの「権利」のための闘争により、「法律」の実効が担保されることになります。「権利」と「法律」の「相互依存の関係」の指摘です。
(p81より引用) 私法上の法規の実効性、その実際的な力は、具体的な権利主張に即して示される。そして、権利は、一方で自己の生命を法律から受け取りながら、他方でお返しとして法律に生命を与える。
そう捉えると、
(p106より引用) 諸国民の政治的教育の本当の学校は、憲法ではなく私法である。
ということばも重みのあるものだと理解できます。