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サムライたちのアントルプルヌア物語|53冊目『イノベーターたちの日本史』

米倉 誠一郎(2017,  東洋経済新報社)



米倉先生、法政大学退官記念イベント


野中先生と対談する米倉先生 退官イベントでの1シーン

教育と探求社の探究学習プログラム『クエストカップ』に僕の勤務する聖学院の学校の1つ、聖学院中高が昔からエントリーしていて、過去にはグランプリを受賞したこともあります。

米倉誠一郎先生はクエストカップの審査委員長であるので、そのご縁でご挨拶をさせていただいたことが何度かあります。

また、RBS(立教大学大学院ビジネスデザイン研究科)でマーケティングの授業を担当されていた滝沢哲夫先生が、コロナ禍に主催していたオンラインのウエルビーイングの勉強会にも米倉先生は参加されたことがあります。

ご縁と言っても面識がある程度なのですが、直接名刺交換をしたことがあった僕のところにもメールで米倉先生の法政大学退官イベントの案内が届きました。

米倉先生のお話が聞けるだけでも参加する価値があるイベントなのに、かの野中郁次郎先生や、『ストーリーとしての競争戦略』の著者、楠木建先生も登壇されるとのことだったので、これはもう行かない理由はないと思い、滝沢先生を誘ってイベントに参加してきました。

開催の30分くらい前に会場に着いたのですが、すでにたくさんの人が集まっていて、米倉先生にサインをしてもらうための列もできています。
僕も受付を済ますと列に並んで、本を購入してサインをしてもらいました。
その本がこの、米倉先生の著書、『イノベーターたちの日本史』です。

面識があるとは言っても、ちょこっと挨拶を交わしたことがある程度の僕なんか米倉先生が覚えていてくれるわけはないのですが、名刺を渡してご挨拶をすると、旧知の友人であるかのように、とても親しく接してくれるので、「懇意にしている僕の先生」という気分にさせてもらえます。

そのサービス精神、人懐っこさが、人たらしというか、米倉先生の人気の秘密であり、退官記念のイベントにして500名キャパの一橋講堂が満席になってしまう理由なのだと僕は思いました。

米倉先生にサインしてもらいました


ベンチャーおじさん、ソーシャルおじさんは実は歴史学者


僕の中では米倉先生といえばクエストカップの審査委員長であり、ソーシャル・イノベーション・スクールの学長であり、ご自身も言われていましたが、イノベーション、ベンチャー、そしてソーシャルというイメージが強くあります。

ハーバード大学でチャンドラー教授に師事し、シリコンバレーの洗礼を受けたことでベンチャーおじさんへとなり、さらにバングラデシュ、グラミン銀行のムハマド・ユヌス博士との出会いからソーシャルおじさんへと進化していく米倉先生ですが、本来の研究者としての根幹は歴史学者にあります。

修論は小野田セメント研究、そして博論は日本の鉄鋼業研究だそうで、修論の小野田セメント研究が初めて活字になった記念作でもあるとのことです。
そしてそれが、この『イノベーターたちの日本史』のベースになっています。

歴史研究に際して、「客観的な歴史的事実など存在しない」という米倉先生の、本での語りは確かに主観的であり、英雄を紹介する物語であり、良い意味で読者を感情移入させます。

『海賊と呼ばれた男』(2012,百田尚樹)や『SHOE DOG』(2017,フィル・ナイト)などの起業家のサクセスストーリーを読んでいるかの如く、笠井順八の物語に浸り、高峰譲吉や大河内正敏の生き方に共感させられます。


「秩禄処分」と「士族授産」で起業家推進イノベーション

その昔、「サムライ」とは身分であり階級でありポジションでした。
明治維新によって幕府がその長い歴史に終止符を打つと、さらに高杉晋作、山県有朋が推進した徴兵令によって武士たちはアイデンティティであった兵士としての存在意義を否定されることになります。

役割を失ったサムライたちは政治官僚になりますが、実力はなくても家柄の身分や特権に固執する腐敗した世界(それは現在にも共通します)にうんざりした元サムライたちは官僚を辞め産業界に目を向けるようになります。

士族という身分を、明治政府が「秩禄処分」で公債化し、「士族授産」で起業資金を与えることで、サムライのアントルプルヌアへの転身を促進させたという観点からサムライ出身の起業家の物語を追っていくのがこの本の趣旨です。

アントルプルヌアとして、小野田セメントの笠井順八の物語、知っているようで知らない三井、三菱の財閥のストーリー(三井は越後屋ですからサムライではありませんが、岩崎弥太郎は土佐藩の地下浪人出身)、そして理化学研究所の高峰譲吉、大河内正敏の活躍が語られていきます。


サムライカンパニー、小野田セメント株式会社

小野田セメントは、1881年に現在の山口県小野田市に設立された日本最初の民間セメント企業です。
創立者は旧萩藩士の笠井順八で、笠井は下級武士の三男として生まれていますが、7歳のときに独身で身寄りのない笠井英之進の養子になりました。

笠井は石と石をつなぐセメントという便利な製品の価値に気づき、そしてそれが海外の高額な輸入品であることを知り、そこにビジネスチャンスを見出します。

笠井は秩禄処分で士族に交付された公債を出資させて「士族の士族による士族のため」というコンセプトで、”株式会社" という、当時では真新しい組織形態を採用しました。
それまで存在しなかった「セメント製造」というベンチャーを、新しい株式会社スタイルではじめた革新的な会社で、まさにサムライカンパニーのイノベーションであったといえます。

建築物や施設などが作られればセメントの需要が伸びますが、創業当時は景気の後退によって苦戦を強いられました。
しかしその後、紙幣整理と銀本位兌換制確立をめざした松方デフレ政策が終わり、制限されていた政府建築物の建造や軍事施設の拡充が開始されて国内景気の回復が図られると、それは民間鉄道会社・紡績会社設立による第一次企業勃興ブームにつながりセメント需要の拡大をもたらしました。

需要が拡大するとその需要に応えるために新工場など設備の拡充が行われましたが、設備だけではなく技師など、優秀な人材も当然必要となります。
当初はドイツ人技師の活躍によって支えられましたが、ドイツ人技師にも当たりはずれがあり、はずれた場合の損害は少なくありませんでした。
そのため、次男、真三を技術習得のためにドイツに留学させます。
真三は帰国後、技師長として活躍したのち、取締役・専務を経て、第3代目の代表取締役社長に就任します。

余談ですが、僕が生まれた栃木県の葛生町(現・佐野市)はセメント工場で栄えた町で、僕の父も若い頃、住友セメントに勤めていました。
今あらためて思うと、セメントの原料となる石灰が多く取れたので、セメント工場があったんですね。
そしてもちろん、大きな石灰会社もありました。
山に囲まれた町で、裏山ではいつも発破の音がしていました。
大型のダンプが狭い道を爆走し、家の屋根には石灰の粉が積もり、白い町並みの記憶が僕の中で過疎地域のイメージを強調しています。


高峰譲吉が理化学研究所設立に至るまで

高峰は町医者の長男として生まれました。
7歳のときに藩士の英才教育のための明倫堂に入学し、その聡明さでめきめきと頭角を現しました。
応用科学に興味を持ち、英語も学んでいた高峰は、イギリスのグラスゴー大学に留学して、工業化社会の到来を目の当たりにして衝撃を受けます。

帰国後、友人たちと一旦は会社を設立しますが、アメリカ・ニューオリンズで開催される博覧会へ長期派遣されることになり、その会社は解散となりました。

アメリカで人造肥料と出会い、帰国後、その製造販売会社の設立を考えます。
渋沢栄一に、日本における人造肥料製造の重要性を熱く語り、資金面の協力を得るわけですが、ミッションやパーパス、そしてビジョンによって行動を起こし、躊躇しないというところが経営にとってとても大切なことなのだと学ばされます。

「ある日どういう縁であったか高峰譲吉氏が自分のところに面談に来られた」
と渋沢は言っているので、もともと懇意であったわけでも、強いコネがあったわけでもありません。
その産業が日本にとって重要であることの根拠と、熱意、まさにパーパスとビジョンで渋沢の心を動かしたわけです。

高峰はその後、人造肥料会社を結果的には途中で投げ出すことになるのですが、次なる自分のミッションを見つけ取り組みます。
そして、ウイスキー製造会社を設立、アルコール発酵プロセスの過程でジアスターゼという消化酵素を発見し、さらにアドレナリンの発見という活躍となりますが、詳しいところは、ぜひ米倉先生の本を読んでもらえたらと思います。

そうした経緯を経て理化学研究所の設立に至りますが、理化学研究所設立の資金繰りについても、渋沢栄一に協力を依頼します。

高峰から学べることは、好奇心の豊かさと行動力、そして価値があると判断したときの潔さです。
自分の描いたビジョンの達成のために躊躇せずに資金の相談に赴く根性と、根底にある強い信念、すなわちベンチャー精神、パーパス経営とはこういうことかと思いました。

理化学研究所の心理的安全性と大河内正敏のリーダーシップ

大河内は東大を首席で卒業した優秀さを持ちながら、釣りが趣味で、ケタはずれのグルメで、芸術にも理解があったというとても興味深い人物です。

その大河内が理化学研究所の所長になったのは42歳のときであり、前任の古市所長が67歳であったことを考えると、理化学研究所としては思い切った人事だったと思います。

頭が良くて、仕事も遊びも公平に一所懸命というまさに僕の理想とするリーダーは、これまた自分もめざすところである自由な雰囲気の組織文化を作り上げていきます。

当時の理研には、長岡半太郎、池田菊苗、鈴木梅太郎、本田光太郎といった日本の科学学会を代表する個性派揃いのスターが揃っていたわけですが、そのようなスター研究者たちを取りまとめるために大河内は、各リーダーに自由裁量を与え、自己組織化された運営形態を選び、「科学者たちの自由な楽園」を作り上げていきます。

組織も個人もパフォーマンスを最大限に発揮するためには、やりたいことをやれる自由が一番であるということを、大河内は本質的に理解していて、時間と予算を与えて、徹底的にそれを実践したリーダーだったわけです。

そしてその自由な文化と予算を支えたのは大河内の言葉でいう「芋蔓式経営」、すなわち多角的企業体「コンツェルン」でした。

大河内は研究成果の事業化を目的に理化学興業株式会社を設立し、理研栄養薬品、理研酒工業、理研光学工業(後のリコー)などの傘下企業を擁した、理研コンツェルンを形成していきます。

芋蔓式とは蓄積された経営資源の多重理由のことで、製造をめざす製品に加えて、その副産物を利用するビジネスモデルのことです。

例えばアルコール製造のため、その原料となる芋をつくるに際して、芋の副産物として生じた蔓や葉を飼料として養豚業を営む。
その結果、酒とそのつまみとなるソーセージが同時に製造できることになります。

しかしその後、第二次世界大戦への参戦とともに理研コンツェルンの経営状況は悪化し、戦時体制の中で「科学者の自由な楽園」は失われ、大河内が作り上げた産学共同体は産学軍事複合体に性格を変えてしまうのでした。

理想的な組織が残念ながら永遠に続いたわけではないのですが、大河内に見られるリーダーシップを通して、今日の組織に通用するたくさんの示唆が与えられたと思います。


似てないですね。米倉先生ごめんなさい🙇


最後までおつきあいいただきありがとうございました。
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