
私は
うだるような蒸し暑さは、夜になっても衰えることを忘れていた。私は疲れていた。無表情に終電近い地下鉄の車外を覆う闇を何の目的も無く追い続けていた。ただ、ただ、闇が去っては、またやってくる地下鉄の窓の外。感情は窓の外に棄ててしまったかもしれない。このような日々の繰り返しだ。生きている意味がわからないわけではない。むしろ必要性がわからないのだ。それでもごく普通に当たり前のように生きている。生きるとは所詮そんなものではないか。そんな心の中のやり取りが、私とは無関係に行われていた。
地下鉄のいつもの駅を降りると、週末の疲れを撒き散らす安っぽい酒の臭いが充満していた。傾きかけた体を足がやっと追いかけるような酔いどれ人が、私の前に立ち塞がっていた。悲しみと諦めが入り混じったようなどんよりとした薄笑いを払いのけると、私は、地上への階段一段一段に吐いた息を置きながら上った。階段室には、コ―ン、コーンと無表情な靴音が、波のように訪れるざわめきとともに、冷たい人工物に反響していた。
夜の闇を引き裂く看板の光を避けるように、私は殺風景な裏通りに入ることにした。いつもの繰り返し見慣れた街が、どこか遠い幻のように蠢いていた。私は、時折見える雑踏を、何の興味もない映画を眺めるかのように歩いていた。もう10分も歩けば我が家だろうか。我が家といっても、誰かが待っているわけではない。私は縁というものをとっくに失っていた。この見渡す限り人で溢れかえっている世の中で、私を迎え入れてくれる者は何処にもいない。私は、私以外の人から見れば、街並みに落ちているいしころや道の片隅に生えている名も知らぬ雑草と同じだ。間違って視線に入ろうが誰からも記憶されることは無い。近所の人たちと形ばかりの挨拶を交わし、疲れた体で玄関を開けると、夏であれば、灼熱に焼かれた熱気が飛び出し、冬であれば、凍えて縮こまった冷気が抱きついてきた。「でも、おまえたちだけだよな」と苦笑いをしていたことが、味気ないくせに何故かほんのりと懐かしかった。
私は、家並みが続く道を曲がり、街のくだらない喧騒も消えていく仄かな月明かりに映える公園に入った。この公園を横切れば、暫しの安息を与えてくれる古ぼけた我が家が見えるはずだ。公園に流れる静かな空気を伝わり、木々や草花の息遣いが聞こえた。疲れきった私を見ながら、彼らは声を落としてひそひそ話をしていたようだ。
その時だ、足元の大地からの微かな震動を感じたのは。大地が音も立てずに陽炎のようにゆらゆらと揺れていた。私は立ち止まって目を凝らしたが、自分に見えているものがにわかに信じがたく、思わず目を何回も何回も擦ってみた。遠くでザーッと真実を語る水の呟きのようにも聞こえる音もした。「これはいったい…?」雲間から月の見詰める大地は、大きく姿を変えようとしていた。愚かな人智など到底及ばぬ何か、間違いなく容易ではない何かが起こっていた。私は、得体の知れない不安に押し潰されていく自分に身を硬直させると同時に、何故か甘い香りのような微かな期待を心の片隅に感じていた。魔法じみた空気の渦のようなものが、うねりながら私を静かに覆いだし、私の内部の至るところを柔らかく刺激し始めた。
見慣れた公園に流れる穏やかな空気の息遣いや木々等の悪戯っぽいひそひそ話は消え、私の激しい動揺だけが脈打っていった。私の決して賢くはない頭脳も神経の末端と必死に信号をやり取りしているが、悲しいまでに無駄な作業のように感じた。手足が大地の震動に同調するようにプルプルプルプル小刻みに震えた。空気の渦に大蛇のように巻きつかれがんじがらめの私を、感情の高まりが徐々に、しかし、繰り返し繰り返し、艶かしく列をなす蟻のように執拗に体を上っていった。皮膚の至るところからあらゆる神経を蹂躙して身体中を駆け巡った。「何だ、この不可思議な高まりは?」理解不能な出来事に動転した心は苦しみ溺れた。うねりまくる渦。歳も様々な数えきれない無数の私が、叫び声を渦に共鳴させながら次々と飲み込まれていった。荒くなる息、止まらんばかりの鼓動、目も眩まんばかりの閃光。ついに私は屈服したのだろうか。「動く、大地が動く……。」
内なる命を開放しなければならない。私は堪らなくなり耐え切れずに大きく息を吸い込んだ。時が消えたかのような一瞬の静寂の後。私の胸の許容量などに関係なく果てしない空間に空気の激流が流れ込み、私の身体は物質の根源にまで砕け散っていく。声ではない声をあげて巨大な渦となっていった。「私は、…」風が、川が、木々が、吸い込まれ、私の中で巡行していった。ついには突き抜けんばかりの鼓動。星が、大地が、生命体が、体内に吸い込まれていった。私の体は限りなく広がり、激しく躍動した恒星たちは、私と激突を繰り返しながら次々と融合していった。時間からも空間からも制御を拒絶した悠久のエネルギーの炸裂。私はもはや私ではない。私という存在は完全に破壊されていった。そして、凄まじい破壊と創造の跡に残されたものは、望みもしない完全な沈黙だ。放り出されて戸惑う沈黙は、迷子のように頼りなげに果てしない暗黒に寄り添った。
それから、いったいいくつの昼夜が繰り返し訪れたのだろう。しかし、どれほどの時間が経ったのか、あるいは、私は何処にいるのか、などと問いかけることは、明らかな愚問でしかないだろう。私にはもはや形というものがなく、何時、何処、という観念もない。強いて言えば、何時でも、何処にも存在しているだろうし、その逆も然りだ。
私のような人間の失踪でも、一時的に社会の結構な話題にはなったようだ。勿論それは単に興味本位以外の何物でもなく、私というかつての存在自体を肯定しているわけでも何でもない。懐かしい月明かりの公園には私の言葉が残されていたらしい。それは私という存在の最後の言葉であり、同時に始まりである言葉だ。ちなみに新聞の社会面には以下のような見出しで取り上げられていた。
「一人暮らしの中年会社員、謎の失踪」
<月明かりが映える公園に不可解な詩を残して>
内なる命の開放
暗闇を震わせる息吹
風が、泉が、木が、飛び込む
さらに胸が裂けんばかりの鼓動
星が、大地が、生命体が、
体内を無限がめぐる
私は宇宙だ