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多様性と普遍性と
先日、慶應義塾大学の小論文の問題に出題された沼野充義先生 (東京大学文学部・名誉教授) の文章が話題になりました。
今年の慶應文学部の小論文すごい
— はしもと (@rh_S4S) February 16, 2025
文学部入試の最終回みたいな問題……
かっちょえぇ…… pic.twitter.com/4GLyPnWkTj
少し引用すると以下の通りです。
繰り返すが、世界文学の膨大さと多様性は確かに圧倒的である。しかし、私たちはその多様性を楽しむことができなければ、生きている甲斐がない。その普遍性を信じられなければ、相対主義のニヒリズムの深淵に飲み込まれてしまう。世界文学を読むことは、多様性と普遍性、「こんなにも違う」と「こんなにも同じなんだ」の間の、永遠の往復運動ではないかと私は考えている。
元のツイートをポストしているはしもとさんのおっしゃる通り、かっこいい文章ですね。
それについて私は以下のようにツイートしました。
「多様性と普遍性、『こんなにも違う』と『こんなにも同じなんだ』の間の、永遠の往復運動ではないかと私は考えている」
— 長屋尚典 (@bahasaz) February 18, 2025
かっこいい文章ですね。大学で世界の言語の多様性について授業しながら、言語学を研究しながら、私もこういうことをよく考えています。 https://t.co/lF3QddJBmq
大学で世界の言語について授業しながら、言語学を研究しながら、私も沼野先生のおっしゃるようなことをよく考えています。
「多様性と普遍性、『こんなにも違う』と『こんなにも同じなんだ』の間の、永遠の往復運動」というのは、世界文学だけでなく、世界の言語の研究にもあてはまるでしょう。
以下ではその証拠 (!?) というわけでもありませんが、まさにこの多様性と普遍性の問題をめぐって最近私が書いた文章があるので、今日が国際母語デーということもあり、それを紹介します。
2024年に日本学士院学術奨励賞をいただいたご縁で「日本学士院ニュースレター No.33」に寄稿したものです。
言語の研究のどこがおもしろいか
人間の言語がおもしろいのはその多様性である。世界には7,000を超える言語が存在すると言われるが、これらの言語は、語彙はもちろん文法の点でも異なっており、それぞれが独自の特徴を持っている。そして、それを話す人々の文化や歴史、アイデンティティを支えている。
たとえば、日本語で「花奈がリンゴを食べている」と表現する内容を、フィリピン共和国で話されるタガログ語で表現すると、Kumakain ng mansanas si Hannah になる。これを無理矢理日本語に訳すと「食べている を リンゴ が 花奈」というようになって、語順が日本語と正反対である。日本語もタガログ語もおおよそ同じコミュニケーション上の目的を達成しているが、それを実現する方略は全く異なっている。
子どもの時から人と違うことがしたかった私にとって、言語の研究の醍醐味は、自分のよく知らない言語について調査し、このような言語の多様性を分析し、誰も気づいていないような特徴を見つけるところにある。
たとえば、インドネシア共和国で話されるラマホロット語では「右」や「左」のような相対的な空間概念を用いて事物の位置を表現できない。日本語なら「男は木の左に立っている」と言えるが、この言語には「右」も「左」もないのである。そのかわりに「山」や「海」といったランドマークを利用して「男は木から見て山の方に立っている」のような言い方をする。そんなラマホロット語の特徴を見つけたときはとても愉快だった。
しかし、言語の研究のもっとおもしろいところは、その多様性の中に共通点を見いだすことができるところである。上記のように異なる日本語もタガログ語もラマホロット語も、たとえば、談話の主題の出現位置だとか親族名詞の使い方だとかにおいては非常に似ている。そして、それには理由がある。そんな共通点を見つけ、その理由を探求することもまた言語研究の醍醐味である。
今後もそのような言語の多様性と共通点をめぐって言語の研究を続けたい。それを通して人間とは何かについて少しでも理解したいと考えている。
そういうわけで、今日も私は世界の言語の普遍性と多様性を巡って考えつつ、言語学を研究・教育しています。
※ この投稿は国際母語デー (2月21日) にあわせたものです。まつーらとしおさんの企画で、 #みんなの母語デー ということで言語学者が投稿しています。まとめ記事はこちらからどうぞ。