言語学は3度生きる
私は言語学者です。
言語学という学問を研究し、教えています。
言語学について考えたり、勉強したり、書いたり、話したりしながら、毎日暮らしています。そんな生活をもう20年ぐらいは送っています。
その意味では、言語学はもはや暮らしそのものといえます。
今年2023年もそうでした。言語学にはじまり言語学に終わる年になりそうです。
そんな2023年を終えるにあたり、言語学漬けの生活をしている私が、「言語学をやっていてよかったな」と思った3つの瞬間についてご紹介したいと思います。
具体的にはこの3つです:
語学の勉強で生きる
言語調査で生きる
子育てで生きる
言語学がどのように暮らしのなかで役に立つかを全部書いたら本になってしまうので、ここでは音声学、特に調音音声学 (言語音がどのように舌や唇を使ってつくられているのかを研究する分野) に絞って、この分野が私の生活でどのように生きているかを紹介してみたいと思います。
なお、この記事は「言語学な人々Advent Calendar 2023」に参加しています。2023年も残りわずかですが、みんなで言語学を盛り上げていきたいですね。
語学の勉強で生きる!
私が音声学に最初に触れたのは中学校のころだったと思います。
英語を勉強するのが好きだった岡山の公立中学校の生徒だった私は、英語の辞書に書いてある音声記号をなんとか理解したくて、岡山市の岡山シンフォニーホールにある丸善に行って、音声学の本を買ってきたのです。
それが音声学に触れた最初でした。
音声学ほど語学においてタイパのよい勉強はありません。
というのも、音声学は世界の言語でどのように言語音が発音されるかを体系的に調査し、その仕組みについて明らかにする学問だからです。それが語学に生きないわけがありません。
その成果は IPA (International Phonetic Alphabet; 国際音声記号) にまとめられています。
音声学を勉強するとこの記号一覧を発音できるようにトレーニングを受けるわけですが、そういう勉強をすることは語学に本当に役立ちます。
たとえば、音声学の知識があったので語学の勉強で以下の発音が簡単にできるようになりました。
英語の摩擦音 [θ] [ð]
フランス語の円唇前舌狭母音 [y]
中国語の有気音・無気音
タガログ語の軟口蓋鼻音 [ŋ]
インドネシア語の内破音
理屈を知っているので、あとは実践あるのみだけだったのです。タイパ、いいです。
もちろん音声学を勉強しただけですぐに語学の発音がよくなるというわけでもないのでしょうが、それでも役に立ちます。
言語学を勉強して語学を効率的に勉強したいですね。
言語調査で生きる!
私は言語学のなかでも記述言語学と呼ばれる分野を専門にしています。
この分野では、手話も含めて世界のいろいろな言語が、文法にせよ、音声にせよ、どのような仕組みを持っているのかを分析します。
その具体的な方法についてはこちらに書きました:
たとえば、私はインドネシア共和国フローレス島東部で話されるラマホロット語を記述しました。
全く何も知らない言語です。発音も全く聞いたことがありません。
そんな言語をどう研究したかというと音声学です。
たとえば、ラマホロット語の話者に「あなたの言語で『家』はなんといいますか」と聞くと、単語を発音してくれますが、その発音を正確に聞き取って [laŋoʔ] のように書き取るのです。そして、また次の語を聞き、それがいずれ、句になり文になり、というように調査を進めていくのです。
最近では、東京大学文学部の授業「野外調査法」で、ミャンマーのティディム・チン語の調査を学生たちと一緒に行っています。ここでも音声学が大活躍です。
東大の学生たちも毎回楽しみながら音声学を使ってこのティディム・チン語の調査をしています。
自分の何も知らない言語の音声を書き取って分析する作業はとても楽しいものです。
音声学という学問がそもそも言語調査に使用する目的を持っていることを考えると当たり前といえば当たり前ですが、それでも私には言語学をやっていてよかったなと思える瞬間です。
自分が全く知らない言語について、その音声を聞き取り、その音声ができる仕組みを理解し、それを音声記号で書き取り、自分でも発音できるようになる。
それだけのことですが、その言語の話者の方から小さな秘密を共有してもらったみたいで、とてもうれしいです。
こうして、言語調査をする度に言語学が生きているなと実感するのです。
子育てで生きる!
最近、子どもが生まれました。
フィールドワーク先のフィリピンやインドネシアで赤ちゃんに囲まれて暮らすことはよくあって赤ちゃんには慣れてはいたものの、赤ちゃんが自分の家にいるという経験は (弟が生まれたときをのぞけば) 人生で初めてなのでかなり大変です。
しかし、そんな非日常のなかにも言語学が生きる場面がすぐにやってきました。
子どもの言語発達を観察することになったのです。
子どもが生まれて数ヶ月も経つと、なんとなく言語音らしいものを発するようになります。
音声学を勉強した私は子どもの発音の発達に興味津々です。
そういうわけで、我が家でも IPA トレーニングがはじまりました。
子どもに、
[ba aba]
と発音してあげると、一生懸命マネしようとします。
もちろんすぐにうまくはいきません。口を閉じているだけのときや、ブブブブとつばを飛ばすだけのときもありました。
なので、一緒に遊びながら繰り返しトレーニングしてみました。
例えば、[ba] を発音するためにはさまざまなことをしなくてはなりません。唇をいったん閉じてから閉鎖をつくり、その後、その閉鎖を開放します。その間、ずっと声帯を振動させつづけます。
赤ちゃんにはこれがとても難しいようです。
もちろん唇を閉じたり開けたりすることはできますが、意図的に閉じて開放するとか、その間に声帯を振動させるとかが難しいようでした。
大人が当たり前にできる唇の開放もなかなか難しいようで、[bbbbb…] のようにずっと開放できなかったり、開放するときに体全体が動くほどの力をいれていることもあったりしました。
特に、[ba] を発音するときに声帯の振動を維持するのが難しかったようで、[b a] のように別々に発音することが多かったです。
そんな練習の段階が数日続いたのちに、気付いたら [ba] がきちんと言えるようになっていました。本当に短期間で子どもは成長します。
このように、言語学を勉強したおかげで、私は子どもの発達を観察する解像度がグンとあがりました。
最近生まれた新しい人間が [ba] という音に対して、何をやろうとしているのか、何ができなくて、何ができるようになっているのか、それが手に取るようにわかったのです。
言語学を勉強してから子どもと接していると毎日そのような瞬間があります。
言語学やっててよかったな、と本当に思いますね。
ぜひみなさんも、赤ちゃんと接する機会があれば、言語学の知識を使ってみてください。
言語学を人生に生かす
この記事では、私にとって言語学が「生きた」「役に立った」瞬間を3つ、ご紹介しました。
語学で生きる。当たり前かもしれませんが、実利的です。
言語調査で生きる。言語学者しか使わないかもしれませんが、言語学は言語を分析するツールを提供します。
子育てで生きる。言語学の知識があれば、子どもが言語発達で何をしようとしているのか、どう苦労しているのか、何を達成しているのか、それがよくわかります。
このように言語学が生きる場面はたくさんあります。
そういうわけで、2023年もあともう少しですが、今すぐ言語学を勉強することをおすすめします😅
というわけで、本年もお世話になりました。どうかよいお年をお迎えください🎍