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雪景色を見て何かを思い出すのか、何かを見て雪景色を思い出すのか

飛騨の雪の道を歩きながら、そしてバスの中で雪景色を見ながら、私はずっとワクワクしていた。

「この景色を独り占めして見たかってん、これぞ、ザ・日本の冬やで」と独り言を言いながらバスの窓に顔をほぼくっつけて見ていた。

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「あの木、ダイソーで売ってたクリスマスツリーのオブジェみたい」
「クリスマスケーキの上に突き刺す飾りの木みたい、粉糖がかかってるようなやつ」
「ここの雪の乗っかり方、こないだ食べたローソンの雪泡クリームの苺ケーキみたい」
「ハーブスのケーキの断面図みたい」
次々とそういう言葉が浮かんだ。
大阪人はすぐ何かに例える習性が強いらしいが、私がとにかくケーキを食べたい人だとしても、それらは横に置いておくとして、「何だ、その貧相な感想、なくそう yeah」と思わず韻を踏むくらいに自分の想像力のちっぽけさに呆れた。
よくよく考えてみたのだが、私が雪景色を見て頭に浮かべた大体どれもが、おそらく誰かが雪景色をイメージして作り出したものだった。
雪国の木をイメージしてクリスマスの飾りは作られているだろうし、粉糖はまさに雪を表現するために使われているだろうし、雪泡のケーキなんかはその名の通り雪をイメージしたクリームをぼたっとスポンジの上に乗せている。
ちなみに、最近の私が好む生クリームのケーキは、絞りを使った硬めのホイップで繊細にデコレーションしているものではなく、緩い感じでぼたっとスプーンで落としたようなクリームの乗せ方をしているケーキが好きだ。
とまあ、やっぱりとにかくケーキを食べたい人みたいに書いてしまったがそれは余談で、雪景色を見た時に、雪を真似して作られているものを思い出す、という自分自身の逆のイメージの浮かべ方に気が付いてしまったのだった。
どっちが身近に感じているかということだと思うが、私にとっては雪景色よりもショートケーキの方が身近なのだろう。
本当の創造とは、雪景色を見てあのケーキを生み出せる人のことだし、尊敬する。なのに私のような人間は、逆なんだよなぁ、平凡だなぁ、と思う。
雪景色を見て、雪を模して誰かが生み出した何かを思い出して、雪ってアレに似てるなぁなんて思うとは、私が雪だったら、「いや、こっちが元祖や」と怒っていると思う。
雪から何かを創造するのは無理でも、せめて雪の想像はしたい。

スペインの巡礼の道を歩いている時も、何もない草原と青い空を見て、「PCのwindowsの画面みたい」と思った。つまらない感想だなあと思ったが、今はその逆で、Windowsの画面のような風景を何かで見たら、この目で確かに見たあのスペインの風景を思い出す。うまくイメージの向きを修正できて良かった。

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これまで雪のある場所に一人で来たことはなかった。
冬の国内旅行と言えば、いつも誰かと来ていた。
パートナーと話しながら歩きながら、景色を共有していたようで、その風景は記憶にそれほど深く刻まれてはいないのが正直なところ。だから妹が「朴葉みそ」を「パクハみそ」と読んだなんていうしょうもないことばかりが記憶に残っているのだ。それはそれでいいんだけど。
旅としては、一人で見た景色の方が強烈に記憶に残るのだ、私の場合。
だから、これからはクリスマスケーキを見たら「奥飛騨で見たあの景色のようだ」と思い出したいし、クリームがぼたっと乗っているケーキを見て、この雪景色を思い出したい。
だけど、きっと自然とそうなるのではないかとも思う。
きっと今回見た雪景色は心に残る。
これからは、白くてフワッとした美しい何かを見て心が動くとき、きっとこの雪景色を思い出す。
他のことも同じように。
何かを見て、自分がこの目で見てきた美しい風景や場所を思い出せるような、そういう旅をしたいなあと思った。

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とりあえず、次にショートケーキを食べる時、きっと飛騨の雪と乙女りんごのこの景色を思い出す。
最後の締めに書きたかったことは、そういうことじゃない気もするけど、まあいいや。今日は何となくそんな感じ。

勝手に名乗っている「岐阜観光大使」の旅日記、次回は飛騨高山の街歩きの写真を。つづく…




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のりまき
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