誰が言ったか 何を言ったか
誰かの発言を見聞きした時、僕たちは【誰が言ったか】にまあまあ比重を置いてしまう。普段から他人に迷惑を振りまいて、ろくでもない事ばかりを言ってる人がたまに発する「こいつ、たまにはイイ事言うじゃん」的な言動には「どの口がほざいてるねん」と反発したりもする。
言行不一致な人が発するカタチだけは立派な文言に、僕たちは価値を見出しにくい。
友人が言っていた。「『何を言ったか?』に重きを置くと情報の精査にコストがかかるんですよねぇ。たまにいい事言う人は、たまにしかいいこと言わないので、それをキャッチアップするの大変なので」と。
なるほど。たまにしかいい事を言わない人は、普段はずっとロクデナシであり続けるので、スルーしておかないとこっちが疲弊してしまうという事は確かにある。「普段からクズっぷり全開で生きてるクソヤロウの100万回に1度の金言など探せねえよ。ほんで、仮に見つけだしたとしてもその泥の中の金の粒は砂金ではなくて、せいぜいが雲母だし」という事もあるだろう。……友人はそこまで言ってはいないが。
でも、ロクデナシが発する一生に一度の金言を「どうせロクな事は言ってないだろう」とスルーするのはともかく、「ムカツクあの野郎が言ってる事だし否定せねば気が済まない」というメンタルになるのは良策ではないと思う。
これは、何者でもない僕の言葉が【桶屋を儲けさせる風】になったらいいという願望を僕が持っているが故の思いなのかも知れないが。【何者でもないそのへんのオッサンが語った思想が、誰かの心に刺さって、それがきっかけとなってその人は交通事故に遭う運命だった子供を救い、その子供は数十年後に世界を救う発明をするのだ】という嬉しい連鎖が生まれる事を僕は夢見ているから。
もちろん、僕のこの思いはロマンティシズムに塗れ過ぎていて現実的ではないと思う。また、友人の上述の思想を否定するものでもない。ほんでもって、その【何者でもないそのへんのオッサン】というのは別に僕じゃなくったっていいという事も付け加えておく。
そして、ここまでに書いた僕の浪漫の対極には、「私が大好きなこの人の言う事は全て正しいに決まっているので、この人のいう事は全て肯定する」という姿勢がある。いわゆる信者というヤツだ。
【誰が言ったか】に比重を置き過ぎると、信者というものになりやすい。だから、【誰が言ったか】【何を言ったか】の比重の置き方は半々くらいにしといた方がいいというのが僕の考えだ。
YOUTUBERという新しい職業は、【何を言ったか】に比重を置いて取捨選択されるモノになりえる可能性を持っていたけど、結局のところ既存のマスメディアの広告収益の理に収まってしまっていて、【誰が言ったか】に比重を置く視聴者であり続けて欲しいというスタンスになってしまう。「この収益化システムの下で、このオレを儲けさせ続けてくれ」と願うYOUTUBERの望みは、「オレの信者よ、増えよ」だ。
100万回に1度くらいはクソヤロウは金言を吐くし、20回に一度くらいは教祖は嘘をつく。前者を無視するのは問題ない。でも後者を鵜呑みにするのは問題だ。
と、いうわけで、【誰が言ったか、何を言ったか】にかける比重のバランスは大事だと思うのです。
全肯定も全否定も根っこは同じ。それは楽。
いちいち検証しようと試みるのはめんどくさいけど、信者となってコントロールされるのは危険だし、クソヤロウの金言の中から真理を見つけ出す事もできるかも知れない。
長々と書いたけど、結局のところ、言いたい事はただ「世界がもっと浪漫に満ち溢れたらいい」なんだけどな。
酔っぱらいのオッサンがまくクダから自分なりの哲学を構築する事だってできるし、袖すり合っただけの他人が発した金言が世界を救う風になったらいいと思ってるんだ。僕はバカだから。
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