自分の人生を真っ直ぐに生きるために、わたしは文章を書きたい。
茹だるような酷暑を乗り越え、穀物が実る秋の風を感じる季節となりました。
暑すぎる夏のおかげで、外出の機会は格段に減り、今年の夏は自分との対話に勤しむ時間を過ごした。
じぶんとの対話に一区切りをつけて、きょうは久しぶりに文章を書くことにした。
これまでわたしは、いくつかの文章を書いてきた。メディアでのモノの紹介、地域の魅力、ちょっとしたストーリーテリング、綺麗な言葉。書いても書いても、どこからか生まれてくる「書けない」という焦る気持ち。それはちょっとやそっとの焦りなんかじゃなくて、書けば書くほど満たされなくて、落胆していくのです。
「もうやめよう。元々文才もないし。文章を書くなんて向いてないし好きでもないんだ」と自分に言い聞かせ、文章を書くことをわたしはやめた。
でも、元来あきらめの悪いわたしは、あきらめたとじぶんに言い聞かせながらも、たまにSNSにポツリと呟いていた。
何となく書いていた文章も、それなりに「いいね」をもらえたし、フォロワーさんからは、共感しましたとメッセージをいただいて、のぼせあがってみたりもした。でも、どこかでじぶん自身の言葉じゃないように感じるこの気持ちに、次第にSNS自体にも嫌気がさした。そして気が付けばSNSを開くことからも、文章を書くことからもどんどん遠ざかっていた。
それでもなお、心を惹かれる文章に出会うと、著者を思い描いては嫉妬して、「こんな文章が書きたい。なんて素敵な表現なんだ」と羨ましく思い、空っぽなじぶんに、追い打ちをかけるように嫌気がさすのだ。
こんなことばかりを繰り返して、いつしか、わたしは「書きたいのに書けない」と、ココ何年も同じ場所から動けなくなっていった。
今年の夏。
焦りや、嫉妬のもっと奥の方にある、「書いてみたい」という純粋な願いを丁寧に掬いあげる時間を使ってようやく辿り着いたような気がしています。わたしの本音は、素敵な文章や誰かの心に届く文章、感動する文章を書きたいと思っていたわけではなかったのだと気がつくことができた。
ただ、まっさらな自分を曝け出して、「わたし」を生きてみたいと、そう思っていたんだ。
「書いて表現する」ということは、正直な自分を生きるための手段なのかもしれません。
こうして書いている今も、文章にしてしまうのが、なんだかひどく怖いと思うのですが、それでもわたしは自分の内側を素直に表現していきたいと願っている。
ようやく久しぶりに自分の気持ちを連ねた、飾ることのない文章を書くことができた。
今日は願いの種を蒔くと、叶うと言われている新月だった。