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どこまでも自分のために書く

読者のことを想像して、わかりやすく書きましょう。そのことが文章を書く際の基本原則のように語られる。もちろん、そのような文章が良い文章であることも理解できる。その上で、なぜ「良く」書かなくてはいけないのかと疑問が残る。

なぜ、読者のことを想像しなければならないのだろう。そんなふうに考えている時点で、初めから想像する気がないのかもしれない。「なぜ」と問い始めるとよりそうしたくなくなる。「わかりやすくするため」とか、「読みやすくするため」とか「思いを伝えるため」とか、なんだか答えは実用的だ。確かにその利益を否定することはできない。

しかし、文章を書く喜びはもっと深いところにあると私は思う。役に立ったり、人に褒められるから書くというのは、その深さではないところで満足しているように見える。実用的にではなく、本質的に文章が存在していることを肯定するような言葉にあまり出会ったことがない。

最近、部屋を片付けている。持っている本や、持ち物の9割を捨てた。なんだか、自分は本が嫌いなようであると気がついた。これまでたくさん買っていたのに、捨てる際には一切迷わずに手放せることが不思議だった。これまで、私は本を自分で読んでいるように思えて、読まされていたのだと気がついた。「これはいい本だから」とか「古典だから」という、自分の中の他者の声に急かされて買っているだけだった。実際、読まないで飾ってあるだけの本もあった。自分で心から置いておきたいと思ったのはその中の一割にも満たない少ない本だった。

残った本の中に、数学や哲学などの理論書や学術書が少なく、詩集や美術書の方が多いことが意外に思った。私はエセ理論家だと気がついた。実は自分には理論がないから、理論を本によって固めようとしていたのだ。

捨ててから踏ん切りがついた。理論は最後の道具であって、するべき何かが見えているときには必要ない。頭の中に文章が見えていて、言葉があふれているなら必要ない。

だから、もうすでに踏み固められた「人のために書く」とか「わかりやすく」とか、既存の道理に従って書く必要はあまりないと思った。今のところ私はそれらを気にせずに書けているのだから、それで言葉は止まらずに文章になってきているのだから、もう理論で保護する必要も立証する必要もない。この瞬間瞬間、文章が生まれているという事実を受け止めていればいい。

すっからかんになった、部屋を今度はどのように使おうか。少し考えた。

自分の幸せのために使おう。

考え始めて、しばらく私は文章を書いているときの自分が一番幸せなのだと思い至る。

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たくみん
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!