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岨手由貴子『あのこは貴族』“あのこ”とは一体誰の事なんだろう【映画感想文】

原作は未読。けれど、素晴らしいんだろう。
ちょっとした文を書く為に2000〜2010年代の恋愛映画を観ていた時期があったのだけれど、どの映画も隔絶されながらも衝突して恋愛とは如何なる物か描いていた。でも、収まるのは決まって同じ類の人物。閉じた自分を掬うのは勇気を持って手を差し伸べてくれる人。似ている様で勇気がある人だったりする。ロミオとジュリエットの様な命懸けの覚悟と絶望や、花より男子の様な飛び抜けた隔世の無垢な愛嬌で壁を飛び越える話でもない。平凡な世でどうやって恋愛するか? を描く作品が多かった気がする。
それを踏まえると『あのこは貴族』は少し変わった性格をしている。飽くまで隔絶された世界での恋愛。だから、思い通りにいかない事が当然だと描く。江戸時代前の貴族中心社会や中世の専制君主制を描く様な隔世を描く。けれど、それらの時代に現代はとても似ているのかもしれない。庶民には知らされない貴族という階級。交わらない人種。エグ味のある現実を描く傑作だった。
ここからはネタバレを厭わず書いていく。


『あのこは貴族』の、“あのこ”とは一体誰の事なんだろう?

 観る前は衝突を考えていた。太い綱を引き合う二人の女。その対立が炙り出す恋愛を見ようと思ってた。それは重い。苦しい作業になるなと思った。

 実際始まると重々しい雰囲気。正月早々都内の星付きホテルにタクシーで着けて新年祝いする家族。醸成された作法が染み付いている。門脇麦は実にしおらしい。正月早々家族会議が繰り広げられるがそこに婚約者を連れて来られない負目から門脇麦は会合に遅れる。指摘され種々様々なやっかみを言われる。その中で山中崇は軽妙にその場をいなしてみせる。互いの関係性は後に影響を与えるシーン。門脇麦の申し訳なさ気な表情がしおらしくも特権階級のソレを思わせる重要なシーン。

 門脇麦は婚約者から婚約破棄を言い渡された。それを友人に相談するも皆既婚者ばかりで話にならない。いや、なるのだが結婚してなんぼ、の様な空気感が漂い居心地が悪い。唯一の理解者は石橋静河。彼女は貴族の世界の力学を理解し歩む放浪者。箱入り娘の彼女の唯一の親友と呼べる存在。

 門脇麦は受け身だ。ネイリストの紹介で出会う関西弁の男に体がビビる。ネイリストも自分のテリトリーに属している錯覚を改められるシーン。松濤で産まれ住む彼女は東京という場所を理解していない。だから、高良健吾と出会ってしまう。

 水原希子は運が悪い女性だ。産まれが変われば彼女の世界は変わったかもしれない。けれど、その時の彼女は最低の人間に成り下がっていたのかもしれない。何を最低とするか別にしてそうなりそうな危うさがある。慶應の校内ランクを知らぬままに入学した彼女。何も無い田舎から抜け出たかった彼女。学費の為に人生を沼に沈めた彼女。学費の話もいつの間にか消え東京に溶け込んだ彼女。だから、高良健吾と再会してしまった。

 高良健吾の家柄は高尚な天上人の家系だ。水原希子と気まぐれに出会い存在を忘れて偶然の再会で一夜を迎えて興信所の詳細を見て舌打ちできる様な男。まぁ興信所を使わずとも理解していたと思うが。そんな男は遊べない歳になって門脇麦と出会う。ドラマティックな出会いを演出し主人公ヅラする彼。その姿は彼女には尊い。指輪のサイズが合わなくても彼の表情や所作によって全てが闇雲にされる。

 門脇麦・水原希子・高良健吾の三人の中で揺れ動く物語。これは対峙の話だ。当然の様に門脇麦と水原希子は対峙を迫られる。それが石橋静河の考えで導かれる事は何ともしがたいが、それは彼女が孤独でない証でもある。彼女は言った。東京には出会わない階層がある。貴方には合わない階層があると。その彼女が互いを引き合わせる意味。とても深みのある哲学的なシーンになっていた。水原希子にも友達がいる。退学以降長い事合わなかったけれど同窓会で久々に会った友人。あたしと同じ階層の友。山下リオ。彼女は物語の中核にはいない。けれど、石橋静河と同じ位置に居る。山下リオは水原希子を掬う。彼女も仲間。


“あのこ”とは一体誰を指しているのだろうか。それをつい考えてしまう秀逸が画に詰まっている。

 ここまでは内容に触れて書いた。此処まではかなり書きたかった展開。テンポ良く進むストーリーが擦れ違い重なる瞬間は此処だから。けれど、ここからを描くのは難しいと思ってる。ここからは本編を見て欲しい。この映画の素晴らしさが詰まっているから。言葉で言い表すのが難しい展開への発展。

 門脇麦と水原希子は似ている。というのがこの物語のテーマなのかもしれない。箱入りお嬢様と一庶民の彼女が似ている。そして高良健吾も似ている。それは何故なんだろうか? 石橋静河と山下リオは境遇から何から何まで違えど同じ視座を持つ存在なのかも。彼女は彼女を心配して手を差し伸べる。それは高良健吾が居たからなのかもしれないし、居なくてもそうしていたのかもしれない。孤独なのは高良健吾だけなのかもしれないし、彼は孤独じゃなかったのかも……、しれない。孤独からの解放が随所に散りばめられる素晴らしい後半。

 そもそも階級とか階層って何なのか? この辺はとても難しい。議員の息子は議員に。この感覚はいつの時代から生まれたものなのか。財閥解体時に政府の主導権が入れ替わった時の名残なのか、それとももっと以前のものなのか。そういうのを問わないで行われるやり取りがこの作品で印象的だ。高良健吾は油で床や壁が汚れた中華屋に水原希子を連れて行く。誰でも一度連れてくのか。そこらへんはわからん。けど、高良健吾がこの店に愛着を感じていて、彼の様な人物がこの店を知っている事が何故か素敵に感じる。そりゃあ水原希子だって恋をする。浮遊した私を救ってくれるのに中華屋はうってつけだから。彼はそういう意味でとても相手を理解している。門脇麦には行かせなかった。けれど、相応しい関係を築ける。そうすると高良健吾だって自由に生きてるじゃんって思う。けれど、孤独が前提になっているから。だから、自由を求めて彷徨って見つけた居場所なのかも。その辺がボンヤリと伝わってくる。階層の隔たりが一瞬だけ消える。それが終わるまでの刹那に虚しさが込み上げる。あたしと貴方は違うのだと。

 映像の美は所作に現れている。門脇麦と水原希子は明らかに違う動き方をする。本当に何から何まで違う。絶対にリンクしない所作。水原希子はする側で、門脇麦はされる側の様な。それが喉に突っかかる。変調が人を不安にさせる。ギクシャクなテンポが不安な序章を越えると見えてくるのは実像。虚飾に満ち溢れた世界の嘘っぱちや見栄が顕になる。それも、“何がある”わけでなく“何もなく”漫然と輪郭が映し出される。

 この映画の特殊性は“衝突”しないことにあると思う。本来衝突すべきと思ってしまう関係性もこの街では衝突せず進む事を示唆している。別にしなくてもいいんだって感じ。冷静に考えりゃそうだ。古い言葉で3高の高良健吾が多少の事をしていて当然で、相互的に関係性を呑み込んで過ごしていようが、特段変わった事はないのかもしれない。当人同士のやり取りと野次馬的な観客の視座が噛み合わなくて当然。やってることをちゃんとやってればぶつかる必要がない。でも、この事を真正面に描く映画は少ないと思う。何故なら面白みに欠けると思ってしまうから。それが貴族とその他を隔てる正体なのかもしれない。混ざらない物は、はなから混ざらない。その現実を拒んでいるのはこっちなのかも、と、映画を観ていて思った。この感覚は不思議だ。ちょっと距離を置けば理解できる筈なのに。ガンガンにぶつけ合おうと期待するのは、誰?

 そんな事を思うと“あのこ”とは誰のことなのか分からなくもあり、分かる気もしてくる。“あのこ”とは、門脇麦であり高良健吾であり慶應で溜まってた人間達であり松濤に住む一家であり、この映画を見た人が貴族だと感じた瞬間に映る人間なのかもしれない。自由に生きるというのは存外難しいのかもしれない。それを観せるこの映画は“貴族”という言葉を現代から冷静に捉え、東京という街(その他のコミュニティでもこのような隔たりは容易に起こることは想像できるが)や、社会的位置において生活する事の不自由さを観せつけてくれた。それはとても貴重で世の中に確実に存在する筈なのに隠されている日常。

 門脇麦が引っ叩かれるシーンはとても空々しく画一的なドラマにみえる。そうやって繋いできた一族に囚われた彼女を演出していた。そのシーンを境に彼女は自由になる。東京駅を斜め上から見下ろす水原希子と山下リオは清々しい笑顔を見せる。彼女達もやっと自由の意味を噛み締めた。門脇麦が水原希子を見つけたシーン。彼女の部屋を物珍しそうに愛らしそうに見つめる門脇麦。そんな彼女を水原希子は眺めていた。こうやって二人並ぶと30手前の女性が東京のビルに阻まれた隙間からやっと覗ける夜空に黄昏る光景でしかない。そこには障壁や衝突のない凪の黄昏が訪れる。それこそがこの映画の素晴らしさだと感じた。人はそれぞれ生きているが何かを抱えて生きているから通じ合えるものもある。様な雰囲気を噛み締める。


総括すれば、素晴らしい“恋愛”映画だった。そして人が介在する事の残酷さと美しさを描く傑作。

とても素晴らしい作品だった。あと、友達がいるっていいなって。友達っていっても井戸端で相手を小突く関係じゃなくて、ちょっと距離を取りながらアドバイスとか悩みとか話してくれる様な友達。そのやんわり気遣ってくれる関係がいい。高良健吾にそんな相手がいないのが可哀想にも見えるけれど、最後には、いや、そもそも水原希子が彼にはいて、門脇麦が彼にはいるのだから。最後にそれに気づく。そんなシーンだと思っている。見つめ合う二人はやっと共鳴したんだと。それを思うと羨ましく感じられる。そんな関係性が自分にはあるのかなって? そうやって考えるとこの映画は所謂“恋愛映画”に当てはまるんだろうなって。なんだかんだいって高良健吾の事が二人は好きだったんだなと。そうやって感じてジーンときて微笑ましく黄昏る気分になった。

 何かを忘れかけた時にまた見返す事になるだろう、素晴らしい映画だった。めちゃくちゃ良かったから長文を書いてしまった。ここまで読んでくれてありがとうございました。

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