《ドMの晩酌:第12夜》 哀犬チョンボ
大いなる勘違い
最近、自分の物忘れが顕著になっているように感じる。
人の名前や誕生日を覚えることは昔から苦手ではあるが、これについては全く気になっていない。
なぜなら、私は、その人の雰囲気や交わした会話、自分自身に湧き上がった感情などを映像のように記憶できるという特技があり、久々に対面しても名前を呼ぶ以上の関わりで余裕でリカバリーできてしまう。
しかし、細部まで過去のことを覚えすぎているために、相手から「そんな会話しましたっけ?」「相手を間違えていませんか?」と思われない程度にその記憶を披露しないと危険だ。考えてみると、全くもって無駄な記憶だ。
では、どのような物忘れが顕著になっているのかと言うと、やるべきタスクが次から次へと頭の中から消去されてしまうのだ。
やる「べき」と書いているということは、それらが私にとって、ただ単にやらなければならないことであって、やりたいことでは全くないことを意味している。
息子たちの学校への様々な提出物、世帯主としての社会的手続き、仕事上の雑務など、楽しい要素ゼロだ。
よって、締め切りが先であればるほど思いっきり忘れてしまう。
スマホにタスク設定をしても、アラートが鳴った時に「はいはい、やるんでした」と、思い出せたことに満足し数秒後に忘れる。
紙に書いても見忘れる。
提出用紙を棚に目立つように置いても、それ以降目もくれない。
私を守ってくれている神様のお陰か、幸い締切直前に気が付くことが多いのだが、心拍数マックスでドタバタと提出準備をしている私のことを息子たちは毎度呆れている。
始末の悪いことに、締切直前という状況が私のドM魂に火を点け間に合ってしまうことから「私って土壇場のほうが能力発揮できちゃうかも」という大いなる勘違いを生み、この悪しき習慣に拍車がかかっている。
つまり、自分を変える努力をしたくないがために、いかに現状を都合よく捉えようとしているかって話なわけですが、このことに向き合うと自分が心底イヤになってしまいそうで怖い。気分を変えてビールでも飲むとするか。
逃げると追っかけてくる
さて、今日の晩酌もキンッキンに冷えたアサヒスタイルフリー。それを、ぬるくならないように缶専用のマグにスポッとはめる。つまみは「シラスおろし」
居酒屋よりも自宅で食べるシラスおろしは最高だ。
店で出てくるシラスおろしの、まぁ少ないこと。「お通しかよ!」と思う少量のそれを人とシェアしたら、食べていないに等しいじゃん!と思うのは私だけだろうか。
そんなことを毎度考えながらシラスおろしを作っていたら、最近は大根を十五センチ以上使うようになってしまった。若干小ぶりの大根なら半分使っていることを冷静に考えると、私のシラスおろしの適量が常識外なんだな。
そんなことは、まあいいや。
軽く水気を切り、小丼に大根おろしをギッシリと詰め込みシラスを盛り盛りにかける。美しい雪山のようだ。思いっきりダイブしたいぜ。
さて、次に大切なのは醤油の量だ。慎重にちょっとずつ醤油をかけては混ぜて味見をする。
ノリコ、気を付けろ。入れ過ぎると薄めようがないぞ。
この工程を3度ほど繰り返し、完璧なしょっぱさのシラスおろしが完成。
ウキウキしながら、マグに入ったビールとシラスおろしを持って、リビングに戻る私。子供たちも寝たし、最高の時間が始まる・・・。
この時を味わうために生きていると言っても過言ではない。
さて、今夜は晩酌しながら何をしよう。
悶絶したいほどの過去のネタも浮かばないし、たまには建設的なことに時間を使うとでもするか。
私は数年前から、とあるスクールのお世話になり「自分とは何か」「人間存在とは何か」について学ばせていただいている。カウンセラーとしての技量を高める目的もあるが、自分という存在を様々な角度から理解できることに喜びを感じる。きっと私のご先祖様は畑を耕すことに一生懸命で、こんな贅沢な時間を持つことはできなかったろうな。
ご先祖様、私だけすいません。
そして、命を繋いでくれてありがとう。
そうそう、テキストの内容を理解し自分の言葉で説明するという宿題が出されていたんだった。お題はユング心理学「自我防衛」について。
シラスおろしとビールのハーモニーを味わいながらテキストを読み進める。
なになに。
「合理化とは、自らを正当化し、自分は悪くないとうことを極端に証明しようとすること」と書いてある。
つまり、さっき私が蓋をした、自分の物忘れに対する捉え方のことじゃん。
なんちゅうシンクロだ。
逃げると追っかけてくるとはこのことだな。
ブツブツ。
そして、えー、なになに。
「自分自身が受け入れることができない事柄や考え方を否定し、なかったことにしたり実際に忘れてしまったりすることを『抑圧』といいます」だって。
実際に忘れてしまうって、そんなことあるのか。やばいじゃん、記憶喪失じゃあるまいし。
私が受け入れられなくて忘れてしまった記憶ってあるのかな。ドMだもの、受け入れられないネタこそ大好物じゃん。
あ、ビールなくなった。
二缶めにいくか。プシュッ。
グビグビ。
ふと頭をよぎる、白なのかベージュなのか、汚れた雑種の犬の記憶。
抑圧した記憶
あれは、たしか私が小学校に入学する前後の頃だろうか。
理由はわからないが、新聞記事の中の「犬あげます」という記事を見た母親がオスの雑種をもらってきた。その犬に母親は「チョンボ」という名前をつけた。
自宅の車庫は物置も兼ねた仕様になっており、シャッターとは別に人が出入りできるドアが付いていた。チョンボは、そのドア付近に父が打った鉄パイプにつながれており、ドアが鉄サビにより閉まりきらないため、雨の日は車庫の中、そうでなければドアの前で過ごしていた。
私の記憶から推測するに、鉄パイプにつながれたチェーンは1メートルくらいだったのではないだろうか。田舎の庭付き戸建てにしては、犬の行動範囲は相当狭かったと思われる。
私はチョンボと遊んだ記憶がない。記憶がないのではなく、実際にだっこしたり撫でたり、散歩に連れていくことをしていなかった。
私がこの犬と関わらなければならなかったのは、朝の餌をあげるときだけ。学校にいく準備をした頃に、母親から朝食の残飯が入ったベコベコにへこんだ鍋を渡され、チョンボのもとにもっていく係が私だった。
そのベコベコにへこんだ鍋を手にチョンボのそばによると、窒息するのでないかというくらい短いチェーンがピーンと張り、首輪が食い込んだ状態で前足を上げているチョンボがいる。鍋を地面に置くと、餌を食べるかと思いきや、私の服を前足でひっかく。当時の私は登校用に着替えた服が汚れることを嫌い、慌てて家の中に戻る日々だった。
チョンボが我が家にやってきてから1年と経たないうちに、父親がどこからかチャボ(鶏の一種)を3羽もらってきて、庭に小屋を建て飼うことになり、私の朝の日課に卵拾いが加わった。
チャボの話は、これまたネタが満載なので別の晩酌の時にしっかり振り返ることにして。チョンボには服を汚されるし、チャボは朝からうるさく鳴くわ、激しく突かれるわで、幼い私は動物を可愛いとは思うことができなかった。
うーん、チョンボ、チャボ、書いていて紛らわしいな。
そこで私の記憶は終わりだ。正確に言うと、チョンボのこともチャボのことも思いっきり忘れていて、頑張って思い出せたのがこれだけだ。あれからあの動物たちはどうなったのか。
時計を見ると夜の十時過ぎ。私の母親は就寝し、鬼が寝たことを幸いにリビングで羽を伸ばしている父がまだ起きているはずだ。
私は電話で聞いてみることにした。
しかし、そこで衝撃的な事実を知る。
はじめての感覚
チャボの鳴き声が近所迷惑な上に、次々と雛が生まれ収集がつかなくなってきたらしく、私の父は、伯父の経営する運送会社にチャボを連れていくことにしたそうだ。言われてみると、かなり大きい鳥小屋が事務所の前にあった気がする。そして、それとセットで番犬としてチョンボもあげてしまったらしい。
そうだったんだ。
でも、自宅より敷地の広い伯父の事務所の方が、きっとチョンボも広くて幸せだったよね。
日中も誰かしら会社にいるから、チョンボの相手をしてくれていたんだろうな。
ちなみに、父に聞くと、我が家で飼っている間、私だけでなく家族の誰もチョンボを散歩になど連れて行くことはなかったらしい。
今から約40年前、私の親は、とある新興住宅地に一番乗りで家を建てた。そして、瞬く間に周囲にぎっしり家が建ち、玄関前に小屋を建て犬を飼っている家庭も結構あった。
これは、チョンボを散歩に連れていく発想がなかったことの言い訳になってしまうかもしれないが、幼少期、私は犬の散歩をしている人を見た記憶がない。どの犬も行動範囲は犬小屋から延びるチェーンの長さに比例していたように思う。
ペットショップに可愛らしい犬や猫が並んでいた記憶もないし、ドッグフードのコマーシャルもまだ流れていなかった。当然、ドッグランなんてものも無い。
この記憶が、ユング心理学の「抑圧」でないことを祈るばかりだ。そもそも私の母親がなぜ犬を飼おうと思ったのかはわからないが、家を建てたし、犬も飼う? みたいなことだったのだろうか。 あの人は想定外のことばかりする人だから、理由については脇に置いておこう。
昨今のペットの飼い方が常識として定着した自分としては、チョンボが伯父の元に渡ったと知って、ホッとした。さぞかしのびのびと過ごしたのだろう。
「で、父さん、チョンボは何歳くらいまで生きていたの?」
「実はな、ノリコ、兄貴の会社に連れて行ってすぐ、チョンボを鎖から離したら、ダーッと国道までダッシュして、車に轢かれて死んだんだ」
頭が真っ白になった。そんなことあるんか。
そういえば、チョンボって言葉、良い意味じゃないよな。辞書で調べると「麻雀用語。あがりの牌を間違えること/うっかりして犯した失敗やミス(三省堂)」と書いてあった。なぜ、母親はこの名前にしようと思ったのか。
チョンボ、ごめんね。
チョンボなんて名前をつけて。
当時、言葉の意味をわかっていなくって。
散歩に連れて行ってあげなくて。
遊んであげなくて。
撫でてあげたりしなくて。
チョンボはぜんぜんチョンボなんてしてないよ。
最期の時、チョンボは生まれて初めて自由に走ったんじゃないだろうか。だから、自分が走ってるのか何してるのかわからなかったんじゃないだろうか。
おぉ、なんだこの感覚は。全身に風が当たる感じ、足の裏で地面を蹴る感じ、空に飛ぶように高く跳ねる感じ、すごい、すごい、すごい、すごい。
オレは今、生きている。
きっと1分にも満たない間だったと思うけれど、彼が夢のような時を過ごしたのだと信じたい。
そして生まれ変わって、どこかで愛され幸せでいますように。
(イラスト:まつばら あや)
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