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暗黒の乃木神社と暗黒の二百三高地vol.2

『定石が通用しない難攻不落の鉄壁に挑んだ乃木将軍』
日露戦争の際、陸軍は海軍から旅順港に停泊するロシア軍の艦隊を陸上から攻撃して欲しいと依頼されます(ただ、この辺は実は曖昧ではあります。陸軍は当初、旅順要塞を全体的に攻略しなければ意味がなく、旅順艦隊攻撃は二の次三の次くらいに考えていたようです。そして海軍も旅順港の旅順艦隊の重要性に気付き始めたのは旅順攻囲戦が始まった後のようです)。
しかし、その為には旅順港を取り囲むように築かれた旅順要塞を攻略せねばなりません。その旅順要塞の攻略を任せられたのが乃木将軍率いる第三軍だったのです。
この旅順要塞の攻略は難渋を極めました。
そもそも要塞攻略というか城攻めには幾つかの定石があります。
先ずは火攻め。
要塞の周囲を火で取り囲み、一箇所だけ敵の逃げ場を作って煙と熱でいぶり出すのです。
ただ、この手は燃えやすい物で要塞の周囲がびっしりと取り囲まれている事が条件です。もうもうと煙が要塞の中に入り込まないと意味がないのです。
当時、旅順要塞の周囲の木々は切り払われていたらしく、この火攻めはつかえません。また、山の中にコンクリートで固めた要塞を構築していたようで、その中に煙が入っていくかどうか甚だ疑問です。入っていったとしても、周りに木々がないので微量だと思われます。
では、水攻めはどうか❔
旅順要塞は山の中なので、水で取り囲んでも沈む訳でもなく、全く無意味です。
次に兵糧攻めです。
当時、ロシア軍の備蓄食糧は穀類しかなく、ビタミンC欠乏症による壊血症に苦しんでいたそうなので、この手が最も現実的です。
しかしながら、この時、日本軍には時間がありませんでした。バルト海を出発したバルチック艦隊が日本近海に到着する前に旅順港に停泊するロシア軍の艦隊を打ち滅ぼさなければならなかったのです。
つまり、時間のかかる兵糧攻めも使えないのです。
さらにロシア軍が壊血症に苦しんでいたように日本軍は脚気に苦しんでいました。日露戦争以前の海軍の軍医長、高木兼寛は理由は判然としないながらも(高木は麦にふくまれるタンパク質が脚気に効くのでは❔と考えていたようです)麦飯が脚気に効くのでは❔と考えており早い段階で麦飯を食事に採り入れていたので、脚気をある程度までは克服できていました。
しかし、陸軍では長い間、麦飯を取り入れませんでした。それというのも元陸軍軍医総監、石黒忠悳や第二軍軍医部長、森林太郎(森鴎外)が脚気は感染症であり、海軍の麦飯は無意味と主張していたからです。
しかしながら、陸軍大臣、寺内正毅による麦飯を取り入れるべきという主張もあり、結局、陸軍も旅順攻囲戦が始まった1904年8月くらいから麦を白米に対して3割くらい取り入れたのですが、量が少なかった為に脚気をわずかながら減少させるだけに止まりました。
麦の量が少なかったのには、陸軍軍医達の反発もあったのですが、馬糧として大量に消費されていたという事もあり、量を確保出来たなかった事も原因だと言われています。
ともかく、件の事情から日露双方共に栄養失調だったので、包囲する日本軍もある意味では兵糧攻めにあっているのと同じ状況だったのです。つまり、第三軍に脚気が流行る前に旅順要塞を陥落させなければならない状況でもあったのです。

坑道、いわゆる穴を掘って要塞の中に入り込むのも一つの手ですが、先述したように時間のかかる作戦は使えません。故に大掛かりな穴を掘って要塞に、などという時間のかかる作戦は使えないのです。
しかしながら、小規模の坑道を掘って要塞に忍びこむという事は行われたようです。ただ、その作戦もロシアにバレて向こうからも坑道を掘られて激戦になり結局、失敗したらしいです。

こうなると敵をなんらかの形で誘き出すか、大量の砲座や銃座を大砲で潰してから突撃するか、或いは捨て身の覚悟で突撃するか、そのいずれかくらいしか手段がなくなってしまっていたのです

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