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「安部公房展」2回目の訪問。
【再び行ってきた。が】
安部公房展、2回目の訪問の目的は、展示は一通り見たので、途中にある映像と電話サービスの安部公房の肉声の録音をじっくり聞くことだったが、何故かそのPCを使った仕組みでMP3ファイル再生が「ログアウトします」と表示され、途中で止まった。目の前で。IT屋の自分ではあるけれど、なんにもいたずらしてないよ〜ん。画面見てただけだよ〜ん。
まさか、ぼくが熱心に聴いているのをわかって、目の前でシステム止めたのか?だとしたら、かなりデキたシステムではある、と褒めておこう。
【安部公房はインターネットを予感したか?】
それはともかく、展示に「安部公房はインターネットを予感していた」と言うが、BITNET(知ってる人は少ないだろうなぁ)もインターネットも無かった時代、安部公房の触ったデジタルの最初のあの時代はデジタルは「高コスト」だったわけで、おそらくそれは「買いかぶり」に近いものだろう、とはっきり言える。インターネットのキーは「低コスト」にあるからだ。
注:実際のところ、安部公房死去が1993年、BITNET開始は1981年なので、安部公房はBITNETを知っていたかもしれないが、当時はBITNETは一般が使えるものではなく狭い分野での話ではあったので、日本の文壇という立ち位置からはBITNETは見えなかっただろう、と思われる。
【安部公房は知らない「デジタルの低廉化」】
むしろ「過去」である安部公房とその時代では、高価であったデジタルの低廉化による大衆化は、安部公房自身も分かっていなかっただろう。それを私が確信を持って言えるのは、私は安部公房と同じ時代と、その後の時代をインターネットの推進者の1人として生きてきたからだ。
【今のインターネットには知的レベルは関係ない】
安部公房が予感していたと誰かが言う「インターネットのある世界」は、知的レベルの高い人だけのインターネット共和国しか見えていなかったはずだ。今のようにフォロワー数などという数字で物事の評価が、知的レベルとは関係ない「大衆」に瞬時にインターネットでされる社会は想像していなかったはずだ。
【安部公房は「作る人」じゃなかったからね】
そういう意味でインターネットを推進してきた人間(ぼくら)は、安部公房には勝った。その代わりとして、今の世界をぐちゃぐちゃにしちゃったけどね。米合衆国の大統領選みたいにね。
ぼくらは悪人なんだろう。数千年の人の文化の歴史を、完全に変えていくんだから。
【安部公房への親しみの在処】
安部公房と同じ年代なのが私の父だ。同じ東大の医学部で、安部公房はインターンに行けずに医者の道を絶った。私の父はそのままインターンに進んで医者になった。安部公房はそういう意味で、実は自分としても親しみがある。余計な話だが、昭和20年直前直後に医学生であった私の父は、敗戦後の焼け野原の東京を徘徊したという。私の父の先輩の高橋晄正(こうせい)先生は日本の薬害告発の先駆者(薬には副作用がある、ということが高橋先生の告発でやっと一般に知れ渡った)だが、戦時中は軍医として従軍した。そのときの医学生は自分で望まなければ戦争の前線に行かなくても良かった(理系の大学生は「国の宝」だとして前線には基本行かせなかった。学徒動員などは文系の大学生の話だった)。高橋先生がご存命のとき、父に連れられて石神井公園のお宅にお邪魔したことがあるのは、今も覚えている。
【安部公房はヘタレ】
戦後に満州から日本に戻り、医者の道を断念した上に戦後の文壇を壊す、とアヴァンギャルドに走りつつ、下丸子でコミュニストを1年だけやって、その後、日本共産党から逃げ、文壇に認められる事も一方ではやっていた安部公房は、二重に「ヘタレ」以外の何物でもなく、その「ヘタレ加減」を彼の活動の原動力にした、といえば、安部公房は怒るかというと「そうかも知れないね」と、彼は生きていれば言っただろう。私はそう思っている。なにせ当時の戦後のインテリ崩れの若者の典型的風景がそこに見えるじゃないか。
【漬物の行商の夫婦】
戦後の日本全体が貧困で高度経済成長もまだだった時代(実際、高度経済成長は1950年の朝鮮戦争による朝鮮特需から始まった)、東大医学部に行ったもののインターンに行かず大学を出てしまい、医者にもなれず、阿部真知と一緒になったはいいが、貧困で、漬物なんかの行商を夫婦でやり、その中で闇雲に始めた「表現」が「文学」というラベルがつき、NYtimesのHenry.Stokesがファンになってくれたおかげで、欧米に安部公房の名前が知れ、日本の高度経済成長の恩恵は何とか受けられ、箱根に別荘を持ち、ジープ・チェロキーやBMWも持つことはできたが、彼は自分を「ヘタレの成れの果て」と思っていただろう。ぼくはそう思うよ。そして、今回の安部公房展では、三島由紀夫と安部公房を西欧社会に紹介したStokesさんの名前も写真も出ていない。
しかしね。ちゃんと真面目に音声聴いてたんだからさ、途中止めるのは意地悪じゃないかね?
いや、意地悪されたら、ぼくも意地悪しちゃうよ?