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「世の中に今あるものが全て」じゃないんだけどなぁ。

【ストリートピアノでうるさい音楽をするな】
この記事では、結構今でもあちこちでやっている「ストリートピアノ」で不快な音楽をするのはいかがなものか?という主張がされている。この「意見」は、おそらく筆者と、その記事を取り上げた編集部のどなたかの意見が一致したから、あるいは同じようなことを考えた人がいたから記事として出したのだろうが、なんというか、変な違和感が私にはある。おそらく「音楽とは不快なものであってはいけない」という、ご意見の方々なのだろうが、様々な音楽を奏でる楽器である以上、どこでどんな音楽してもいいんじゃないの?と私は思うので、覚えたてのエリーゼのために、をつっかえつっかえ弾く、というご老人もいていいだろうし、超絶技巧のプロがショパンやジャズをやっても、場合によったら、飼い犬が勝手に弾きだしてもいいんじゃないかねぇ?と思うのだが、この記事を出した方々はそうは考えないらしいんだね。

【音楽は「表現」】
音楽って言うものを「表現」ではなくて「可愛い習い事」として見てるんだね。でもね、今の世の中には「自分を表現するもの」として、音楽、ピアノを使う人がけっこう多いんだよ。ビジネスとしての音楽じゃなくてね。その世の中の流れが見えてないんだろうね。なにも大々的に売れなくてもいいけど、自分を表現したい、って言う欲求が渦巻いている。それが見えてないんじゃないかね?それが見えてないから「人前で不快な音楽を流すな」って言う底の浅いことを言い出す人がいるんだと思うんだな。

【お金をいただく商業芸術であれば】
プロで、おカネをいただく音楽のショーということであれば、観客はなるべく多いほうがいいので「不快な音楽」をするのは、もちろん憚られる。一方、「自分を表現する」芸術というのは、観客の多寡と関係がない。前にも芸術について書いたが「こんなの今まで聞いたことない」という驚きだけでも「良い音楽(芸術)」と言う評価もあるだろう。以前、友人だった、日本を代表するキーボード奏者の深町純さん(故人)は「聞くと、みんなそこにいる人が気持ち悪くてゲーゲー吐いちゃう、っていう音楽も面白いよね。そういう音楽もあっていいと思うよ。絵画でもそういうのあるわけでね。やってみたいね」と言っていたのを思い出す。いや、ストリートピアノで芸術やれ、っていうのではなく、そういう音楽もそういう場所ではやってもいいんじゃないの?ということですけれども。私的には。やればできるし。

【コマーシャリズムは当たり前ではない】
こういう「論争」が起きるたびに、自分は「コマーシャリズム(商業主義)」と「芸術」というものを考えるんだな。人間の歴史はコマーシャリズムだけで出来ているわけじゃなくて、この人間の数万年の歴史の中で、商業主義でものを考えるようになったのは、たった数百年だからね。無理・無駄を省く、効率を大切にする、というのはここ数百年のことでね。お金だけで考えれば、効率(安い・早い・正確)が最高な動きをするものは「人工知能」ってことになるので、人間はいらなくなるしね。でも、その人工知能は人間の文化をもとにしていることに変わりはなくてね。無駄とか無理とかバカバカしいこととか、それが人間の発展を作ってきたんだね。それに、今、目の前にあるものだけで世界が構成されているわけではないしね。不可解なものはいっぱいあると思うんだね。普段の都市生活ではそれが見えない、あるいは見ないようにしているだけだね。

いま、目の前にある「公に認められているもの」だけで世界はできてない。

そういうことだと思うんだね。


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