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「知を諦める」人類の話

【インターネットが広まりはじめた頃から言われていること】

●マスコミは衰退して、情報は生で視聴者(ネット利用者)のところに送られるから、情報の中身の正誤を判断するのは、本人が行うしかない
●「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」で判断する

【民主主義とインターネットは似ている】
これはある意味、従来から民主主義で普通に言われる

●自分の頭で考えて行動しよう
●わからないことは勉強してわかるようになろう
●わからないのは、能力がないか、勉強していないか、その両方か、だから、訓練や勉強は怠らないように。

【情報は「送り側」と「受け側」がいる】
という話とだぶることだ。「何を言っているのかで判断」する、ということは「何を言っているかわからないと意味がない」ことでもあり、「なにを言っているかわかるには、学習や訓練が必要」ということも多くなる。情報の出し側ではなく、受け側の学習が一定以上の理解のレベルがないと、物事の内容が正確に伝わらないのは、言うまでもない。

【「情報は公開」されるが】
また「民主主義」の実現には「情報公開」が重要だ、という。正しい間違いの無い情報を全て開示してこそ、民主主義が成り立つ、と言う。しかし、公開された情報が受け手に理解できなければ意味がない。情報の受け側の知識や理解が足りないとなれば、その学習が必要になる。受け手に「学習や訓練が必要」となるので、それを怠る人もいることは考えに入れて置く必要もある。

【民主主義の道具としてのインターネット】
簡単に言えば「インターネット(SNS含む)」は「民主主義の道具」として、民主主義の原理を非常によく表している。それぞれ親和性もある、ということだ。同じような原理と前提でできている、と言っても良い。その基礎には「人は知を持つ動物であり、わからないことは誰でもが学習すれば獲得できる」という「大前提」がある。

【多くの人は学習や訓練を諦める時代が来た】
しかし、この「民主主義」「インターネット」の大前提となる本質に落とし穴があった。それは、知性ある人間存在というものへの大前提の1つ、となるものが、現代は欠落してきている、ということだ。その「大前提」は

●人は生まれながらにして知性を持つ動物で、知的探究心があり、常に学習して知性を高めることを望んでいる。また、わからないことは学習すれば必ず多くの人がわかるようになる。

ということだ。人間であれば「誰でも」この同じ性質を持っている、と考えること自身に疑問符が付いたのが現代という時代だ。

【高度に専門化し学習が困難な現代のテクノロジー】
テクノロジーが発達した現代では、あらゆる分野で「専門化」が進み、知識の激増とともに分断があらゆる場面で起きており、実際、一人の人間の脳では入り切らない知識が溢れているため、多くの人は学習を途中であきらめることが普通になっている。専門家どうしでも、隣接分野のそれぞれの専門家でも、お互いのやっていることが理解できない、などということも起きている。

【遺伝子研究の例】
科学技術とは言うが、自然科学の最先端と言われる遺伝子の世界(分子生物学)でも、既に10年以上前から、生物の「秘密」は、たんぱく質の複雑な規則的繋がりである「DNA」という数種類のたんぱく質の「膨大で複雑な組み合わせにある」と言うことがわかっている。それはあまりに膨大で複雑であるため、専門家がわかろうとして研究をして、なにかがわかったとしても、それは「部分」でしかなく、その「部分」さえ、膨大で複雑であるために、原理ではなく「統計」「現象」でしか捉えられない。また、研究成果を論文などで次代に残そうとしても書ききれず、その研究者の脳をそのまま次代に持っていくしかない。それでも人の脳は限りがあるので、足りない。だから、人の脳の外・コンピュータにその「複雑で膨大な組み合わせ」を記憶させ、それを次代に持っていき、使い方を引き継ぐしかない。そして、これはあらゆる学術分野で起こりつつある。

新たな疑問が湧く。

これを果たして「人智の継承」と言うのだろうか?

【学習を諦める人類】
ましてや専門家でない多くの人は「学習を諦める」ことに慣れてきており、もはや「人には知性があり、知を求める存在が人だ」という大きな「知の前提」が崩れてきている。それは同時に、民主主義の前提が崩れて来ている、ということと恐らく本質的に同じことだ。100年前の世界大戦の頃とはまた違う「人の知の世界」の大きな変化と言っていい。

おそらく、人類はいま、そういうところに立たされている。


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