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「古い人類」の滅亡か

【SNSの集合写真はなんか昔のそれと違う】
飲み会、何らかの会合での集団の写真。必要があって写る中に入ることはあるが、自分ではあまり積極的ではない。なんだか、集団で品のないことを公言しているような、そんな感じがあるだけではなく、SNSがここまで当たり前になると、記念写真というよりは、多くの同じような写真に埋もれてしまう一枚にしかなり得ない「悲しさ」が、どうしてもつきまとうからだ。写真というものが、手間ひまかけ、専門家がするものではなくなった時代において、ありがたみもなくなった。手軽に、手元のいつも使うスマホで、となれば、それでかなりのクォリティのものが素人でも撮れるのであれば、有り難みはなく、専門家の技術はデジタルで予め器機のなかのサービスとして安価に用意されている。集合写真の価値が減った。それは、現在にあっては、かつての写真ではなく「記録」でしかなく、さらに、この先にはディープフェイクのAI化で、さらに映像の価値を落とす世界があるはずだ。

【その写真は本物か?船長のいない宇宙船もできる】
亡くなった人と訪れた遠い外国の地での写真も作れてしまう。写真はどんどん現実から離れていき、おそらく絵画と同じような扱いになっていく。SFの金字塔の1つ「Star Trek」だって、既に未来ではない。現実に月に行くのは人間ではなくロボットで良いわけだし、あのSFでは、あの巨大な宇宙船を動かすのに、あんな人数は必要なく、船長もいなくて大丈夫な技術が既に可能だ。ミッション遂行のための、Star Trekの中心となった人間どうしのドラマさえ、必要なくなった。

【古いタイプの人類の終わりだが新しい人類のタイプは見えない】
デジタルは人との関わりを希薄にする、とは良く言われるが、新しい人と人との関わりの世界を、それこそ新たに作っていかなければ、どんどんそうなっていくだろう。古いタイプの人類の滅亡が既に始まったのだから。

【生きるために自ら作った】
私たち人類は自らが作った、その滅亡の入り口に、実は立っているのではないのか?その入り口で「そんなはずはない!」と、抗議申し立てをしているのではないか?しかし、合理化や自動化は、私たち人類が生きていくために作ったことに間違いはない。生きていくことは、それそのものが将来の人類の繁栄ではなく滅亡に向かう行為だったのか?

おもえば、人は誰もが死に向かって生きる存在だ。同じことなのか?

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