興味がないと思っていた
私は人に興味が無いと思っていた。
近しい人にはよく言っているが、あまり「その人」そのものに興味が無いと感じていた。興味が無いことがいけない事の様にも思っていたのであまり大きな声では言ってこなかったのですが…
ですが、最近そうでもないと思う様になりました。
どうやら、人に興味はあって、興味が無いのは他のことでした。
では、私が興味が無かったのは何だったのでしょうか?今回はそんなお話です。
興味の対象は?
元々、私の興味の対象は人そのものではなく、その人がどの様な人生を歩んで来たか、その人がこれからどのような人生を歩んでいくのか、と言う経験や行動に対してだと思っていました。そしてそれは今でも大きくは変わらず興味あることとして自分の中にあります。それはその人の情報と言えるかも知れません。
では、どうして経験や行動などに興味を持っているのか?それはその人の想いや考え、思考や感情の状態を知りたいからなんだと思い至りました。
例えば、誰かが絵を描いたとして、その絵をどんな気持ちで描いたのか?この部分はどんな想いが反映されているのか?この色使いは何を表現したかったのか?と言った、その人が描きあげた絵(=その人の正解)をその人の言葉で知りたかったのです。
他の誰かが批評して解説してくれるものではなく、その人の言葉で語ってくれることが知りたいと思っています。
更に、そこに私自身がどう感じているのか?どう思ったのかも必要無いことに気が付きました。そうです。私は私自身の考えや、私自身そのものに興味が無いらしいのです。
これはアート思考を通じて自分の根源を考えたときに想い至ったものです。
自分に興味が無い
自分に興味が無いとはどういうことなのか。
自分が空っぽな気もするし、何でも満たせてしまう感覚。満たせるものは問わないのです。他の人の想いでけっこう満たせます。
川の様に、様々な人たちの想いの大地を、右に左に流れ易いところから流れていく感覚でもあります。
流れやすいところを流れるが、人の想いの強さに影響されない感じでもあります。そもそも影響されるような自分が無いので、影響されることが無い。誰かの想いで満たされても、その先の行動は私のものではなく誰かのための行動となる私にとって自然な感覚です。
誰かのために
この「誰かのために」が自分の中からどうして出てくるのか、昔から無条件に信用して信頼するところがあると思っていたのですが、なぜそうだったのか。少しだけ自分がわかった様な気がしています。
7割Yesという考え方を得たことも、この考えに気が付いたきっかけだったと思います。日々出会う様々な方々に感謝です。
自分に興味が無いことを自覚した上で、改めてコーチとして様々な人たちにどの様に関わっていけるのか? 誰かのためにどんなお手伝いができるのか?
これからも考え続けていきたいと思います。