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第6話 僕が起業するまでの話(1) 両親の破産宣告

「なんで大手銀行をやめて造園会社を起業されたんですか?」

と良く聞かれる。

その質問には、いつもだと、「銀行を辞めよう」と思ったあたりからお話をさせていただくのだが、その根っこにあるのは、やはり、育ってきた経緯が背景にあるので、そのお話をしてみたい。


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僕は、高校を夜間で卒業した父と、普通高校を卒業した母のもとに長男として東京都目黒区で生まれた。3つ下に妹がいる。

父親は、早くに父親を亡くしていたので、生活が苦しく、リヤカーでシジミ売りをして生計を助けながら、何とか夜間で高校だけは卒業したそうだ。その後印刷会社に就職し、僕が幼稚園のときに、自宅で印刷会社を起業した。

自宅を大工さんが改造し、半分を工場、半分を自宅にした。小さいながら、その大工さんの仕事はずっと見ていたのは楽しい思い出だ。

父親はよく働いた。印刷機が回る音が子守唄になり、その音が目覚ましになって起きる朝は頻繁だった。

母親は、自分たちに学歴がないのをコンプレックスだと思っていたようで、公文式、そろばん、プール、習字、、、ずいぶん習い事をさせてもらった。

そして、どれも優秀だったようで、母親は、今で言うママ友の勧めもあり、僕に中学受験させることを考えた。その背景には、当時、公立中学が荒れていたこともあったようだ。

受験塾は、四谷大塚という進学塾はもとより、四谷大塚でいい点を取るための塾にも通わせてもらった。そのおかげで、中学から慶應に入らせてもらった。これは、普通のサラリーマンであれば出来ない出費だったと思うので、父親が自営業をやってくれていたおかげである。

父親の会社は、いいお得意さんに恵まれていたこともあり、だんだん自宅では手狭になり、工場を仲間の印刷会社が多い江東区に借り、自宅を町田市で購入した。

僕は中学・高校では「空手」に明け暮れていた。「なぜ、空手?」と思われると思う。僕も?である。それには、父親の強い意向があった。父親は、母親と違って受験勉強にはあまり興味を持っていなかったが、中学に入ってからの部活動選びで、急に口を出してきた。

その口上が、当時の中学1年生に親がそんなことを言ってもいいの?という話なのだが、今でもよく覚えている。

「いいか徳秀、将来、お前が人を束ねる時、使わなくても格闘技をやっていたと言えばみんな従うから、格闘技をやれ。この部活動紹介誌には、『空手』がある。中学で空手部とは珍しい。ここに入れ。入らなければ慶應に行かせない」

と言いだしたのである。

目が点である。「空手??」僕は球技が好きだったため、バスケットボールかサッカー部に入ろうと思っていたので、当時相当食らいついたがダメだった。ただ、その当時の空手部のキャプテンがかっこいい人だったので、その人にあこがれて(自分を納得させて)、入ることにした。

実は、父親は働きながらプロボクサーを目指していた時期があり、意味はよくわからないが、6回戦ボーイとか何とかで、セミプロのボクサーだったらしい。その自分の経験から僕にその話をしたのだとあとからわかった。

ただ、この選択があとで、僕の人生の岐路でいい方向に向かうことになる。

父親の会社は順調で、僕も高校のときは、空手で神奈川県で優勝して、インターハイに出場するなど、順風満帆の成金一家だったが、大学1年生のときに大きな変化が起こる。






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