ある記憶の話。ドッヂボールの正解について
小学校の体育の時間、ドッヂボールの授業中の忘れられないやりとりがある。
「相手チームが優勢で、自分が外野だったらどうしますか?」
先生の質問に、小柄で運動が苦手だった私はこう答えた。
「できるだけ高くボールを投げます。取りそこなった人が当たってくれるかもしれないから」
正解は「一番近くの人を1人ずつ狙う」だったのだけど、小学生の私はどうしても納得できなかった。非力な自分が力いっぱい投げたって、運動が得意な人気者には簡単にとられてしまうと思ったから。
他愛もないこのやりとりは私の心の深いところに引っかかり、その後の人生でことあるごとに再会し、幼い自分を想起させた。
私にとって確かな意味をもつ記憶。
コンプレックスの記憶
こんにちは、福岡県柳川市の水門メーカー乗富鉄工所の後継ぎムスコ、ノリドミケンゾウです。「ノリノリプロジェクト」というふざけた名前の新規事業をやっているので活動的なイメージを持っていただくことが多いのですが、冒頭のエピソードのように子供の頃は運動が苦手なことがずっとコンプレックスで休み時間はひとりで図書館で過ごすような内気な性格でした。
運動ができない自分、先生や友達と関係を築けない自分が嫌い。そんな子供時代の私にとって、冒頭のエピソードはコンプレックスを象徴するような恥ずかしいエピソードとして記憶されていました。
しかしこの時点ではほろ苦い思い出としての記憶でしかありません。思春期を過ぎ大学生になりようやく人並みの友人関係を築けるようになった頃には、このエピソードを思い出すことはほとんどなくなっていました。
克服すべき過去の記憶
それなりに充実した大学生活を経て社会人になった私は、関東の造船所で生産管理をすることになりました。生産管理という仕事は、現場と設計、現場と経営陣の橋渡しのようなもの。多少改善されていたとはいえそもそもコミュニケーションが好きではなかった私には荷が重すぎる仕事でした。
「お前全然仕事できないからボーナスで現場で使う道具でも買ってくれよ」
冗談交じりの会話でしたが現場の職長からこんなことを言われる始末。かなりのハードワークだったこともあり当時は本当につらかったのですが、苦手なことと向き合う覚悟ができた時期でもありました。そうして、「一番近くの人を一人ずつ狙う」ような正攻法を始めたのです。
それは、勇気をもって苦手なキーマンとコミュニケーションをとることだったり、現場でおきるトラブルの解決に走り回ることだったり、自分から上司にアドバイスを仰ぐことだったりと、ビジネスの基本となる部分から逃げずに向き合うことでした。
失敗も多くしましたし辞めたいと思ったことも一度や二度ではありませんでしたが、7年後家業にもどる頃には完全にコンプレックスを克服していました。造船所の生産管理職にとって花形と言われる部門のひとつも担当し、ボーナスで道具を買えと言っていた職長含む多くの人に惜しまれつつ退職。そんな私にとって冒頭のエピソードは「努力しつづければ克服できないことはない」というマッチョな意味をもつようになりました。物事には正しいやり方というものがあって、やるかやらないかでしかない。幼い頃の私はそこから目を背けて突飛なことをいいだす臆病者であったのだ、と。
ひらめきの記憶
そうして家業にもどった私は自社商品開発に挑戦することになりますが、進めていくうちに職人の手作業に頼る自社で商品を作ろうとするとどうしても高価格になってしまうことに気づきました。地道なカイゼンでコストダウンするというのが製造業的には正攻法ではあるのですが、このときの私は手作業の良さを生かした高付加価値な製品を生む、という道を選びました。
しかし当時の私は資金もなければ商品開発や販売に関する知識もない。とにかく先立つものがなければ、と中小企業庁が募集していた「ものづくり補助金」に応募し資金調達を試みましたが、この時本屋で新規事業に関する本を読み漁って作った「鉄工職人の創意工夫で生み出された便利でかっこいい道具で肉体労働で働く人をノリノリにする」という事業計画書がきっかけで話が動き出すことになります。
「計画書にすごくワクワクした。とてもいいプランだと思うからぜひ協力させてください。」
初めてお会いした補助金のアドバイザーの方ががそう言ってくれたのです。この時点では職人が作ってくれた試作品があるだけで実績もなにもない。町工場の職人の創造力を生かした商品で仕事を楽しくする、という物語だけで協力してくれる人が現れたという事実に本当に驚きました。その後、補助金を獲得し開発用の機器を導入することに成功します。
資金調達に成功し順風満帆にスタートした新規事業。東京ビックサイトでの展示会にも参加し業界紙に掲載されるなど当時の私は成功を確信していましたが、現実はそう甘くはありませんでした。
いくら頑張って営業してもまったく売れない。市場調査の甘さ、コストまで含めた商品開発力の弱さ、ビジネスモデルの理解の甘さなどあらゆる面で実力が足りていませんでした。
絶対にいけると思ったのに。
この時点で事業開始から2年が経過しており、社内から「いつまで結果がでないことに時間と金を使っているんだ」という声が聞こえてくるようになりました。就職してからずっと工場勤務で、商品開発もマーケティングも未経験な自分にははじめから無理だったのか。キラキラした業界で働く人気者とは、はじめからもってるものが違うのか。
悩みぬいた挙句、思い出したのはあのときの記憶。
「できるだけ高くボールを投げます。取りそこなった人が当たってくれるかもしれないから」
自分を信じた未来の記憶
マーケティングも商品開発も全く力不足。そんな非力な私が唯一褒められたことがストーリーでした。力いっぱい投げても届かないなら、自分にできる精一杯の奇策を。それからの私はビジネスにおけるストーリーに関する本を片っ端から読み漁り、ストーリーをブラッシュアップし、SNSや勉強会の場であらゆる人に「鉄工所の職人技にデザインを掛け合わせて世の中を楽しくする」というストーリーを語っていきました。
実績もないのに熱心にストーリーを語る変なやつ、おまけにデザインについては全くの素人。当時の私を一言で表現するとそんなものだったのですが、これがデザイナーさん、町工場仲間、マーケターさん、大学の先生など、いまやノリノリプロジェクトに欠かせない仲間たちとの出会いのきっかけになりました。
商品開発やマーケティングのプロである彼らの力を借り、2020年に乗富鉄工所としては初めてのBtoCプロダクト「スライドゴトク」、翌年には「ヨコナガメッシュタキビダイ」を発売。ヒットと言える売上を立てることができました。
キャンプブームのおかげもあり、ローカル番組に出演したり雑誌に掲載されたりしてようやく社内でも新規事業は一定のポジションを獲得することができましたが、話はこれで終わりません。
ノリノリライフとかいうふざけた名前でキャンプ用品を作っている水門メーカーがあるらしい、そんな噂を聞きつけた方が会社に興味をもってくれるようになったのです。
「メタルクリエイターのクリエイティブで世の中をノリノリにする」というストーリーに共感して職人として入社してくれた方もいれば、「一緒にものづくりの未来を変えましょう」と言ってくれた他社の営業マンもいます。なんと「一緒に次世代の水門をつくりましょう」と言ってくれた方もいました(超ニッチ!)。そしてそのうちのいくつかは実際にプロジェクトとして走り出しています。
新規事業をスタートしてもうすぐ4年目になります。まだまだ目標としている事業規模には遠く及ばないし、開発力にも販売力にも課題はたくさんありますが、「今日はどんなことがおきるんだろう」とワクワクしながら働けています。内気だった子供時代を知る友人からは「お前がそんな風に生き生き働いてるのが信じられない」と言われています(笑)
自分にできることを信じてよかった。諦めなくてよかった。
「相手チームが優勢で、自分が外野だったらどうしますか?」
もしもあの質問をもう一度受けることがあれば、今の僕はこう答えます。
「できるだけ高くボールを投げます。ノリノリで!」
PS.開発したプロダクトが見られるノリノリライフのインスタはこちら。ストーリーを語っていたら知り合った福岡大学商学部の飛田先生のゼミの学生さんにより運用してもらってます。
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