ことばの多面性が生み出すデメリット
ことばの多面性
ことばが多方面に広がっている場合、受け手によって解釈が異なる(ここでの「多面的に広がっている」は単語が生み出す複数の示唆のことを指す)。つまりは簡潔な単語で説明するために誤解を生み出すということだ。よくある例は、指示語(こそあど言葉)である。「あれ取って」はお互いに“あれ”の認識が合っていないと会話が成り立たない。他にも「やばい」、「えぐい」などの抽象的な形容詞などが挙げられるだろう。
この記事では「抽象的、具体的」な言葉を「包む、広げる」を使って説明した。
ことばに詳しい人ほど、「やばい→(ほかの言葉)」にする選択肢を持っている。「優しい」などの肯定的な表現だといいが「良い人」などと言われると妙に勘繰ってしまう。時には相手のことばによっては肯定的なものも、時には否定的に受け取ってしまう。言葉へのレンズの透明度が高いために、いろんな意味を考えてしまうのである。性格も関係しているだろうが、個人的にことばへの追究心がある人ほど、物事を多面的に捉えて繊細になる傾向があると思う。
鈍感な人が生み出す厄介なコミュニケーション
厄介なのは、認識が合わないことを理解してない人と話す時だ。口にする言葉を知っているだろうと決めにかかっているために、よく話が噛み合わない。言葉が複数の意味を持つことを理解していないのである。そして不機嫌になる。「う〜ん。違うんだよな。」などと精神的な攻撃をしてくる。そういう人ほど知識がない話を避け、無知を自覚するのを拒む傾向にある。僕はそう言う人たちは鈍感な人って呼んでいる。
鈍感な人は得している?
ここまで書いておいてなんだが、ことばに鈍感な人は得していると思う。ことばを送受信するときのストレスが少ないからである。また、時にはことばに敏感な人を救う時もある。「なんでそんなことで悩んでんの?」と気づかせてくれるからである。ま、悩みの元凶をつくることもしばしばなのだが。そして、会社で成り上がる人もズバズバ言いたいことを言える人だったりする。
しかしながら、芸術や物語は物事に敏感な人から生み出されているような気がしてならない。どちらがいいとは一概に言えないが、考えてみる価値があることだと思うのである。
あなた自身が敏感か鈍感かどっちなんだろう?と思うかもしれない。
僕が一例をあげるとすれば、この文を呼んでなんで「ことば」は「言葉」と表現しないんだ?と思った方がいるかもしれない。そう思った人は敏感な人かもしれない。
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