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「私には情熱が無いのかも…」と思っていた38歳、改めて「自分のやりたいこと」を考える

「自分のやりたいこと」を、10年単位くらいで考えたり試行錯誤したりしているのですが、なかなかしっくりくる答えに辿り着くことができません。

やりたいことを考える中で、自分には情熱が無いのではないかと思うようになったし、そんな自分に対して諦めのような気持ちを持つこともありました。

それが最近、「応援したい人を全力で応援しているときが、一番ナチュラルにパワーを出せる」と気がつきました。つまり、その状態が「やりたいことをやっている自分」に近い気がしています。

「やりたいこと」に対して、ひとつの転換点を迎えた気がするので、心境の変化について書きながら、今の考えをまとめてみようと思います。


できないことへの憧れ

私は、内側から湧き出る想いや情熱を発信できる人のことを、とても素敵だと思っています。熱い想いに触れると心を動かされるし、損得勘定のない情熱を持っている人を見ると、純粋に応援したくなります。

そして、人の想いや情熱に心を動かされるたびに、「自分も想いを発する側になりたい」という衝動に駆られます。

もっと言うと、「自分の中にもまだ表に出ていない情熱があるはずだ」という仮定を持って、「自分の情熱を見つけて、それを発していきたい」と、焦り混じりに思います。

私は今、38歳です。
最近は、「想いを発する側になりたい」という衝動に駆られるたびに、「そんな情熱があれば、とっくのとうに出ているはずだ」とも思うのです。

もしや「想いを発する側になりたい」という気持ちは、自分の本心からの欲望ではなく、「そういう人の方がかっこいい」という一種の思い込みを含んだ憧れなのではないかと、思うのです。

これまでの人生で、いろいろな出来事があったし、いろいろなチャンスもありました。ダサい生き方をしていた期間も長かったけれど、どんな時の自分にも胸を張れるように、いつも全力でいることを心がけていました。もちろん今もです。

なので、「想いを発する側になりたい」というのは、できないことへの憧れなんじゃないかと、ここ数日は考えています。

役目が違う

だいぶ前から「自分の内側から湧き出る情熱は無いんじゃないか」と思っていました。「情熱が無い人もいる、私はきっとそういう人なのだろう」と思うようになっていました。

ですが、ほんの数日前から、「そもそも”情熱”が、私が思い描いているものとは違うのではないか」と考えるようになりました。

「想いを発する人」というのは、私の中では「経営者(起業家)」のイメージが近いです。「こうなったらいいな」「こうしたいな」という未来を思い描くだけではなくて、それを自分の言葉で発信して、そこに近づくための行動をして、周りを巻き込んでいく人。リーダーシップを発揮して、どんどん前に進んでいく人。
私はそういう人をとても素敵だと思うし、応援したいし、「自分も”そっち側”にいきたい」と、漠然と思っていました。「”そっち側”にいかないと時代に置いていかれる」という不安もありました。

フリーランスになることも含めて、独立起業に対する憧れもありました。
それができたらかっこいいな、という気持ちです。

でも、よくよく考えなくてもわかるけれど、全国民が起業家なんてあり得ないですよね。起業家マインドを持つことはとても大事だと思っていますが、起業すること自体には適性的な「合う/合わない」があるし、”人生の限られた時間をどう過ごすか”という観点からも、起業が最適解にならない人は多い。私もきっとそのうちの一人です。

10年単位で試行錯誤してきて感じているのは、憧れていた「想いを発する側の人」と私とは、お役目が違うのだろうということです。

起業をするような人が持っている想いだけが情熱かと聞かれると、それはなんだか違う気もする。

自分の根っこは、確かにある。
自分らしさだって、ある。それはわかってる。

今の自分が持っている「情熱」の定義が、そもそも違うのかもしれない。

そう思って自分のこれまでを振り返ってみると、「できたこと」「やってきたこと」「やりきったこと」がたくさんあるんですよね。その時の自分は、確かに熱意に溢れていたし、エネルギーを大量に放出していた。

私に情熱が無いとしたら、「じゃあ、あのエネルギーはなんだったのだ」と思うわけです。

エネルギー放出量が多いが故の錯覚

周りからよく「エネルギーが高い」と言われます。
子どもの頃からなぜか着火剤的な立ち回りをすることが多かったし、集団の中で率先して行動していくことも苦ではない。「ONの私」は、「頼りになる」と言われることが多く、「見ていると元気になれる」「自分も頑張ってみようと思う」などと言ってもらえることもあります。

そういう評価をいただけることは、素直に嬉しいです。
周りの人たちのお役に立てることが嬉しいし、自分を見て元気づけられるという方がいらっしゃるのは、すごく幸せなことだと思います。

ただ、その評価をいただいているのは「ONの私」です。

周りは、私の一部だけを見て、その評価をしている。
そして私は、自分の一部しか周りに見せていないので、良くも悪くも他者からの評価にブレが少なく、それが「自分らしさ」だと勘違いをしてしまう。

このあたりの話は、前に書いたものと通じている気がします。

エネルギーが高いのは、その通りだと思います。
波はあるけれど、最大出力が大きいタイプ。さらに、出力量を器用に調整できちゃうタイプ。

「想いを発する側の人になりたい」と思っていましたが、これは周りからの「そうあってほしい」という期待と、エネルギーが高いという自分の気質を混ぜてしまっていたような気もします。

自分の本質と「らしさの期待」のあいだに線引きをすることができずに、「なりたい自分」を錯覚していたんだと思います。

「やりたいこと」の誤解

エネルギーが高いことは、だいぶ前から自覚がありました。エネルギーの高さを自覚してからは、それをどのように使うのが自分にとって一番心地が良いのか、なんとなくですが考えながら過ごしていました。

自分が心地よく感じることを大切にしたり、「嫌」な気持ちに蓋をせずにやめられることをやめたり、「エネルギーを使う」ときの状態を良くしようと、心がけていました。

自分の「やりたいこと」については、10年単位で考えてきましたが、いくら内省をしても行動してみてもいまいちわからかった…というのが、正直なところ。それでも、軽やかに生きられるようになってきて、幸せを感じる時間が増えて、「前に進んでるし、そんなもんかな」と思っていました。

「やりたいこと」を見つけたいと思いつつ、10年経っても曖昧なままの自分が情けないように感じつつも、「焦ったってしょうがない」という気持ちもありました。

たぶん、そもそも向かう方向が違っていたのだと思います。
「やりたいこと=自分の内側から湧き出る情熱」だと考えていたから、何がやりたいのかわからなかったのではないか…と思います。

心が喜ぶのは「応援したい気持ち」に素直なとき

エネルギーを「使う」という感覚を持っている時より、自然とエネルギーが湧いてくる時が「やりたいことをやっている」状態だというのが、現時点での仮説です。

過去にエネルギーを大量放出した時の経験を思い返すと、「自分が◯◯したい」という気持ちよりも、「仲間と◯◯を成功させたい」「この人のために今のすべてをかけたい」という気持ちが多くあったように思います。

だとすると、私が一番ナチュラルに最大出力を出せるのは、応援したい人を全力で応援しているときです。さらに、応援したい人のお役に立てていると実感できると、心底嬉しいです。

私の軸はここかもしれないと思いました。

自分が旗を振って、先頭に立って何かを実行していくのではなくて、心から応援している人の振っている旗が折れないように、進む道が続くように、全力で応援する。

私の「やりたいこと」は、「応援したい人を応援することに全力をかけること、全力で居続けること」なのかもしれません。

そうしている時間はただただ楽しいし、自分の強みや気質をとても活かせているとも思います。この辺はもっと踏み込んで整理したい。

自分が旗を降らなくて良いという安堵感


今日は書きながら脳内を整理してきましたが、ここまで書いてきて、今、「自分が旗を降らなくて良いという安堵感」を覚えています。ちょっと驚きです。私はそこにプレッシャーを感じていたのかもしれません。

考えてみれば、「応援したい」という気持ちも、自分の内側から湧き上がってくる情熱であることに変わりないんですよね。

叶えたい未来を実現するために、自分が旗振り役である必要はないんだと、ここにきて気がつきました。「やり方」はたくさんある。私は私のやり方で良いんだと思います。

「〜べき」「〜ねば」を手放してきたつもりで、まだまだ固定観念に縛られているみたいです。フラットに生きるって、簡単じゃないですね。

今日の話は、書ききれていないこともあるので、また別の切り口から書いてみたいと思います。

「応援する」と言っても、生きるためには稼ぎが必要なわけで、「フレー!フレー!」と声をかけることに喜びを感じるわけではありません。応援と依存は意外と近しいとこにあるとも感じているし、その辺りも書いてみたい。



長くなってしまった。
自分と向き合う、良い時間になりました。

また書きます。

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