芭蕉の辞世の句はどれ? なぜみんな辞世の句について語りたがるの?
すでに多くの論者が語っているテーマだが?
以前、「なぜ木曽義仲の墓の隣に松尾芭蕉の墓があるの?」という記事を書きました。今もちょこちょこと反応があり、本気のお問い合わせもいただきました。今回は、その続編として芭蕉の最後の句を深掘りしてみます。
さて、この「松尾芭蕉の辞世の句は?」というテーマ、すでに多くの論者が語ってきました。手垢のついたテーマに、安易につっこんでいくのは無謀な気もします…..
そこで、今回は芭蕉の弟子「各務支考」というひとりの人物にロックオンして掘り進んでいきます。
各務支考は、蕉門十哲の一人です。芭蕉の晩年の旅に同行し、その記録を「笈日記」に書き残しています。各務支考は芭蕉の臨終の場にいて、問題の2つの句と遺言書の作成に立ち会っています。
支考の「笈日記」を深堀りしながら、最後の句について考えていきます。
さて、どうなることやら。本日のメニューは以下の通りです。
参考図書は下記のリンクをご参照ください。
松尾芭蕉 参考図書
芭蕉の辞世の句は「夢は枯野」の句なのか?
まずおさらいです。
一般に芭蕉の辞世の句と言われる俳句があります。
ためしにChatGPTに質問してみると、「辞世の句」は「夢は枯野」の句だとして、以下の説明をしてくれます。ChatGPTに日本史のことを聞くと間違った答えも多いのですが…..
なるほど、「最期まで旅人としての姿勢を貫いた」と言われると、そんな気がします。ネットの代表的な記載を集めた回答というところでしょう。
けれども、調べていくと、「辞世の句は別にある」「辞世の句はない」と、どうも結論が定まっていないようです。
芭蕉の辞世の句の候補は他にもあるらしい
実は松尾芭蕉が最後に詠んだとされる句はもうひとつあります。
松尾芭蕉が亡くなったのは、元禄七年(1694年)の10月12日ですが、その直前の10月8日と9日に二つの句が残っています。
9日の「青松葉」の句こそ、芭蕉最期の句(絶句)にふさわしいと主張する論者もいます。
(この2句以外を辞世の句とする論者もいましたが今回は除外しました)
では、芭蕉臨終までの一ヶ月を『笈日記』に沿って確認してみましょう。
10月5日に大阪近郊の門人たちに手紙を出しています。この日は死を意識した様子が伺えます。なので、5日以降に詠んだ「夢は枯野」と「青松葉」、この2つが辞世の句の候補になります。28日の「秋深き」以前は候補から外れるでしょう。
一方で、『笈日記』はじめ同時代の記録に、「辞世の句はこれだ」という記録や証言は残っていません。
それどころか弟子の路通が書いた『芭蕉翁行状記』に、辞世の句を明確に否定する文が記されています。
「なんだ、こんな決定的な言葉が残ってるなら、「辞世の句」は無いという結論じゃないか」とがっかりしました。でも、じゃあなぜこの記録を知るはずの芭蕉研究者たちが、辞世の句について語っているのでしょうか?
論者の中には「芭蕉は辞世の句と明言していないが」と前置きしてまで、どの句が辞世の句(あるいは絶句)にふさわしいかを熱心に主張しています。正直ちょっと不思議です。
最期の句は「夢は枯野」か「青松葉」か?
ここで二つの句のどちらが芭蕉の最期の句としてふさわしいのか?
これまでの主な論点をまとめてみます。
まず「夢は枯野」派の主張を3つにまとめました。
最後の「新作」である。
この時点の芭蕉は明らかに死を覚悟している。
いかにも辞世の句の趣がある。
この句が辞世の句とされた一番の原因は、「辞世の句」らしさにあるのでしょう。ChatGPTの言う通り、「旅と自然を愛した芭蕉の人生観が込められている」と感じた人が多くいます。
次に「青松葉」派の主張を3つにまとめました。
時系列はこちらが最後の句である。
改作と言っているがほぼ新作である。
芭蕉悟りの境地を示す歌であり、青松葉は芭蕉自身、清瀧川は歌の道を表している。
「青松葉」派の代表格は、魚住孝至氏と福田真久氏ですが、どちらも芭蕉研究では第一人者です。両名とも「青松葉」句がはるかに出来がよく、芭蕉の人生を象徴する最期の句にふさわしいと主張しています。
特に魚住孝至氏の書籍は、「青松葉」句に、「松尾芭蕉」の名前のアナグラムが隠されていると指摘し興味深いです。ネタバレになりますので、詳しくは魚住孝至氏の書籍『芭蕉 最後の一句』(筑摩書房)をお読みください。
「夢は枯野」を支考の「笈日記」で追体験してみる
ここからは、芭蕉の死に立ち会った弟子の 各務支考の「笈日記」を読み込んでいきます。 支考は芭蕉の死に寄り添い、この二つの句が詠まれたまさにその場に立ち会っています。
まず、「笈日記」の10月8日に「夢は枯野」の芭蕉の句があります。
この句を詠んだのは深夜です。芭蕉の部屋から硯で墨をする音がするな、と不思議に思っていると、芭蕉が支考を呼び出します。
芭蕉は夜中にこの句を発句します。
すでに弟子たちが見舞いに来ていましたが、支考ひとりを呼んで、句の推敲を相談します。身体はぼろぼろですが、凄まじい俳句への執念を見せます。
一方で深い葛藤もありました。芭蕉が支考に告白します。
死を意識した芭蕉は、この期に及んで俳句に妄執する自分を自嘲しています。とても苦しそうです。
支考は支考で、「返す返す悔やみ申されしなり」と結んでいます。深く芭蕉の葛藤を噛み締めている様子です。
芭蕉は仏の道、特に禅宗に傾倒し、臨済宗の寺の仏頂和尚に教えを受けていました。
一方、この告白を受ける各務支考も、9歳で臨済宗の寺に入り、僧侶の修行を積んだ人です。芭蕉と同じで、一生放浪の旅を続けた人でした。
そんな二人ですから、死の間際でも悟りにいたらない辛さを、深く共有したのでしょう。
このあとに短い文が続きます。
「笈日記」は芭蕉が亡くなった翌年に書かれています。おそらくここの文だけは、芭蕉死後の世間の反応から、書き留めたものでしょう。
世間の人々は、「芭蕉の辞世の句は?」とか「『夢は枯野』が辞世の句ですよね?」と支考に聞いてきたのでしょう。しかし、芭蕉と最後の旅を共にした支考は、「辞世句などあるわけがない」と釘を指しています。
この翌日にも一句出てきますが、わざわざこちらの「夢は枯野」句の方に、この一文を書き残しています。つまり、こちらが辞世の句と世間は考えたということでしょう。
「笈日記」を紐解いていくと、芭蕉が人生にピリオドを打つ境地になっていたとは思えません。
もし、「夢は枯野」を辞世の句の心境で完成させたなら、その後で自分の妄執を悔やんだりするでしょうか?
しかも、翌日にまた一句出してきます。辞世の句を完成させた心境なら、そのあとで追加の句を出すとは思えません。
「青松葉」を支考の「笈日記」で追体験
翌日「青松葉」句の記載が続きます。
「妄執」を悔やんだ舌の根も乾かないうちに、また「妄執」です。今回の「妄執」は、すっかり諦めた様子に見えます。
「オレの執着は死ぬまで治らん。だが、あの大井川の句をちゃんと修正しないと死ぬに死ねないから、忘れずにちゃんと変えておいてくれ」
自分の「執着」に愛想をつかしている癖に、去来と支考の弟子二人に、修正を念押ししています。
すでに身体はボロボロのはずなのに、いや、凄い執念ですね。
ここで修正の経緯を確認します。
少し前の6月、嵯峨で詠んだ句と、9月に詠んだ新作の句がかぶるから、まだ世に出ていない「大井川」の句の方を変更しろ、という指示です。
でも、2つを比べると、ちょっと変わり過ぎているようにも思えます。
ちなみに清滝は滝ではなく清滝川がある地名です。清滝川は京都市右京区嵯峨の分岐点で、大堰川と桂川に分かれます。芭蕉が見た風景がこの辺りなら、大堰川と清滝川はほぼ一緒なのでしょう。
ただ、二つの句の印象は大きく異なります。
修正前の句からは、大井川のゆったりとした水面に夜の「夏の月」が映っています。大きな川に映る月は崩れず、静かな夜の風景です。
修正後の印象は真逆です。清滝は清流の響きです。「青松葉」からは、真夏の陽光できらめく水の流れが思い浮かびます。枯れていない青い松葉は、一瞬で流れに消えたでしょう。光あふれる動的な流れの風景です。
「青松葉」派の論客たちは、これはもはや「新作」だと主張しています。確かに変わりすぎです。
しかも、突然の「青松葉」です。本当に6月に青松葉を見たのでしょうか?
そうではなく死の間際になって、芭蕉は青松葉を出してきたのだ、とそう解釈したくなります。たとえ本人が辞世の句と明言せずとも、この17文字には特別なメッセージが込められている、そう言いたくなります。
でも落ち着いてください。各務支考は、この句に何も反応していません。
芭蕉の人生最後にこの句が来たことも、「青松葉」が突然出てきたことも、何もコメントをしていません。
先ほども書いたように、「辞世の句などない」と支考が釘を指した文章は、あくまで「夢は枯野」句の方にあり、翌日の句はスルーしています。
後々、弟子たちが芭蕉の句をまとめた際にも、あくまで6月の句として並べています。名人の技と褒めつつも、誰も特別な思いは語っていません。
支考や当時の弟子たちにとって、「青松葉」はあくまで6月の改作句なのです。
各務支考に俄然興味が湧いてきた
おそらくここまで読んで、「各務支考っていったいなにもの?」と思った人もいるでしょう。
「各務支考」はかなりの変人で、実はいろいろ問題のある人でした。
そんな問題児が残した記録など信じられないとする立場もあるようです。
でも、笈日記を読む限り、淡々とした記述は信頼できますし、支考自身に嘘を書く動機やメリットは見当たりません。
芭蕉は人生の終焉で、たくさんの弟子が集まる中、この男にだけ特別な接し方をしています。死に際の句も、遺書も、支考を頼りに仕上げました。
遺書にも特別な謝辞が残され、百人一首と古今和歌集の注釈書や芭蕉庵の仏像が遺品として支考に託されています。
2人の年齢差は21歳、親子のように年が離れています。それでも、強く通じ合うものがあったから、芭蕉は支考を枕元に呼んだのでしょう。
芭蕉は、この支考という男に何をみたのでしょう?
俄然興味が湧いてきましたので、いつか支考についてまとめたいと思います。
まとめ 芭蕉の俳句への執念が凄まじい
ここまで支考の「笈日記」を追体験しながら、最後の2つの句について深堀りしてみました。
どこからどう見ても、やはり「夢は枯野」を辞世の句とするのは無理筋です。
この句の翌日にも「青松葉」句を詠んでいますし、人生の終焉の境地で詠んだとは思えません。
最後の最後に出てきた「青松葉」句も、弟子たちは6月の改作以上の扱いはしていません。芭蕉も修正を依頼した、それ以上でもそれ以下でもない様子です。
こうして当時の文書を紐解けば、明らかに辞世の句はない状況なのに、人々が「辞世の句」だ「最期の句」だと議論するのはなぜなのでしょう?
一般の人ならまだしも、芭蕉をよく知る研究者や論客たちまで、「最期の句」がどれかを議論しています。いったいなぜなのか?
それが私には疑問でした。
でも、今はわかります。芭蕉の凄まじい執念に触れたら、「どうしても語りたい」という思いでいっぱいになります。
かくいう私も芭蕉の執念の凄まじさに、すっかりやられてしまい、ドッと疲れてしまいました。ただただ凄まじい。
もし、命の灯火がもう少しあれば、もう一句、さらにもう一句と詠んだのでは? そう思えるほどの執念です。
そしてどちらの句も、素直な言葉から深く豊かな世界が広がります。わずか17文字の2つの句は、味わうたびにまったく異なるイメージが広がります。
もはやどちらの句が辞世にふさわしいか、というレベルの話ではないように思います。死に際にこの2つの句を絞り出す芭蕉の凄さ。このすごさを伝えたい。私もそう思ってこの記事を書いてしまっています。
芭蕉の近くにいた弟子たちに言わせれば、この句も名人の技のひとつで、芭蕉が俳句に起こした奇蹟はこれだけではない、ということかもしれません。
支考は、芭蕉亡き後も旅を続け、俳句の普及につとめました。
一句一句これで終わりと思って詠み続けていく。そう思って旅を続けたのでしょう。
以上