徳川慶喜は「ヨシノブ」から「ヨシヒサ」へ改名していた。いったいなぜ、誰の進言だったのか?
今回の人物は最後の将軍徳川慶喜です。私は「結果オーライ」な人生を歩んだ人物に興味があり、徳川慶喜はその最たる人です。
彼については、それなりに調べたのですが、名前が「ヨシノブ」から「ヨシヒサ」に変わったということをほんの数年前に知りました。
多くの方にとって、「いったい何の話?」ということだと思いますが、彼は途中で名前の読みを変えているのです。
徳川慶喜の下の名前は「ヨシノブ」として知られています。
しかし、漢字はそのままで読みだけ「ヨシヒサ」とする公文書があり、どこかの時点で「ヨシヒサ」に変わっていたということがわかります。
今回は、この「ヨシヒサ改名問題」を整理します。
特に、その改名に慶喜の意思や、背景となる心理面がありそうで、その辺りを考えてみました。
今回のメニューは以下のとおりです。
徳川慶喜の名前について
本題に入る前に慶喜の名前について整理します。
まず漢字の「慶喜」ですが、この名前は十代で一橋家の世継ぎになった時に授かったものです。
一橋家出身の将軍「家慶」の1字を授かりました。
「喜」の字の方は推測ですが、旧字「㐂」が七三つですので、水戸家七男で幼名七郎麿から付けたのでしょう。慶も喜の字も二つともヨロコビなので、縁起が良い名前です。
次に呼ばれ方です。
昔の人の名前は、私たちの感覚と大きく違っています。
そもそもファーストネーム=実名は、直接呼ぶのは失礼だ、という文化がありました。ですので一般には「ヨシノブ」とは呼ばれていません。
テレビドラマで「ヨシノブ」と言っているのは、視聴者がわかりやすいように呼んでいるだけで、忠実にするとわけがわからなくなります。
では慶喜の場合どう呼ばれていたか?
将軍就任前は「刑部卿(ギョウブキョウ)」やら「一橋(ヒトツバシ)殿」と呼ばれたり、将軍就任後は「上(ウエ)」「大樹(タイジュ)」「内府(ナイフ)」やら「公(コウ)」と呼ばれていたようです。
さらに、実名の読みは必ずしもひとつではなく、複数あったという説もあり、唯一の読みを求める現代人の感覚は「誤解」らしいのです。
徳川家子孫は慶喜を「ケイキ様」と呼んでいたようですが、その事実があっても「ケイキ」が唯一正しい呼称にはならないわけです。
まあ、当時の音声が残っていないので、「正しい唯一の読み」を求めるのは、やや不毛な議論だとも言えます。
参考のため、この記事の一番下に昔の私のブログ記事に掲載した慶喜の名前や渾名の表をまとめておきます。
徳川慶喜は「ヨシノブ」か「ヨシヒサ」か
じゃあ、「慶喜の読み方を追求しても不毛では?」と言いたくなりますが、「改名」したことが明らかであれば、別の興味が湧いてきます。
慶喜が元服以外で改名したなら、その心理的な背景などがありそうです。もちろん、その人の心理などわからないのですが、こちらは想像というか妄想の入り込む余地があります。
慶喜が元服以来の呼び方「ヨシノブ」を「なぜ」「どういう心理」で「ヨシヒサ」に変えたのか、余計なお世話ですが勝手に追求してみます。
まずはわかっていることを確認します。
慶喜の読み方は本当に「ヨシノブ」で良いのでしょうか?
こちらは、慶喜が1847年(弘化四年)、一橋家を相続する時期の水戸藩の書状に、ノブだけふりがながあります。
では、「ヨシヒサ」とする証拠ですが、こちらは「維新史綱要」という文書に以下の記載があります。
その他の史料として、当時の英文記事が参考になります。英文はアルファベットの記載で、読み方が明確です。将軍就任後の英字新聞や当時を振り返る記録にも「Yoshihisa」が出てきます。
一方で、「Keiki」と書いている英文の文章もありますので、やはり混在しています。
では、いつ改名したのか?
維新史綱要はまとめ資料ですし、この文章に「改名ス」となっていないので、必ずしも時期は明確ではありません。
一般に改名は元服や相続時期に起きますので、やはり徳川宗家を継いだ1866年(慶応二年)、あるいはその4ヶ月後、征夷大将軍に就任した1867年(和暦は慶応二年のまま)が一番可能性が高いでしょう。
改名されたので、この時期に告知されたと考えてよいと思います。
細かい話ですが、この4ヶ月のどちらなのかも、追求してみます。
実は慶喜、はじめ将軍就任を拒否していました。「徳川宗家は嗣ぐが将軍にはならない」と、これまたわかりにくいダダをこねています。果たして慶喜の真意がどこにあったのか、二つの見方に分かれます。
本当に将軍就任が嫌で拒否したのか、いやそうではなく、周囲の反応を見極めた上で就任した方がよいと、わざと空白期間を置いて、満を持して将軍になったのだとする説です。
改名は、この場面に起きた可能性が高いわけです。
この特定は、改名の理由を推測することで、ある程度推定できます。
後述する理由で、将軍就任に合わせて改名されたと考えて良さそうです。
なぜ「ヨシノブ」から「ヨシヒサ」に変えたのか?
次に改名の理由ですが、裏付ける史料はないものの、何人かの方が室町時代の第六代将軍「足利義教(ヨシノリ)」の前例を挙げています。
足利義教は、籤引き将軍とも言われ、出家して「義円」と名乗っていましたが、先代が跡継ぎを決めずに亡くなり、籤引きの結果を受けて、還俗つまり俗世間に戻って将軍に就任しています。
還俗の時にいったん名前を「義宣(ヨシノブ)」と名乗ったのですが、「義宣(ヨシノブ)は世を忍ぶに通ず」というダジャレのような話が出てきたので、縁起が悪いと不快に感じて「義教(よしのり)」に改名しています。
念の為、もう二人「ヨシノブ」を挙げておきます。
ひとりは武田信玄の嫡男「武田義信」です。この人は、嫡男なのに信玄への暗殺謀反の疑いをかけられ廃嫡されたと言われています。可能性は低いですが、縁起が悪い「ヨシノブ」の事例です。
もうひとりの「ヨシノブ」は、徳川家康(当時は松平)家臣の「夏目吉信」です。この夏目吉信は武田信玄との三方ヶ原の戦いで、家康の窮地を救った忠義の厚い家臣とされています。
位から言っても、こちらのヨシノブの可能性はなさそうです。
やはり名前の変更は、足利将軍の前例について進言があったということでしょう。ここから時期も特定できます。将軍の名前として縁起が悪い、ということなので、「ヨシヒサ」への改名は、徳川宗家相続ではなく、将軍就任に合わせたものだと推理することができます。
誰の進言で変えたのか?
ここまでは、裏付けはないものの、納得感のある推測ができます。
次に「誰の進言で変えたのか?」に移ります。ここからが本番です。
これについては、一切史料がないため、推測が難しくなります。
ただ、私は学者ではなく、単なる歴史好きなので、「こっからが面白いんだ」と考えてしまいます。
史実は歴史学者の先生たちにおまかせし、史実が埋められない空白、主に心理面を物語を組み立てるように探ってみたいと思います。
特に今回の「改名」は、慶喜が将軍になる際のものです。慶喜が将軍就任を拒みつつ受け入れたその時点の心理に迫れるかもしれません。
私が考える可能性は以下の三つです。
慶喜家臣など徳川家内の進言
孝明天皇など朝廷側からの進言
慶喜自身
慶喜家臣など徳川家内の進言
おそらく多くの方がこの説を取ると思います。
徳川家にいる歴史に詳しい家臣から、あるいはつながりの深い僧や学者を通じて、進言があったと考えるのはありえるシナリオです。
徳川慶喜は水戸藩の出身で、水戸藩といえば水戸学や弘道館が有名で、学問が盛んな藩でした。家臣には水戸藩出身者も多くいます。
この当時、慶喜の参謀だったのは原市之進で、この人も弘道館の先生(訓導)でした。かなり優秀な人です。
原市之進について語りだすと止まらないので自重しますが、とりあえず可能性として彼に設定しておきます。
といいつつ、原市之進は慶喜将軍就任後に暗殺されてしまいます。もし、彼が生きていたら、その後の歴史は大きく変わっていたでしょう。
「ヨシヒサ」が原市之進の置き土産と考えると、ちょっとぐっと来ます。
ただ、この説には違和感もあります。
ひとつは家臣など徳川家内部から、「名前がよろしくない」と進言できるのかという疑問です。
この時期、慶喜が将軍就任を拒んでいたとしたらなおさらです。気まぐれで予測がつかない慶喜相手に進言すれば、「名前が悪いなら将軍はやめる」と、言い出しかねません。
もうひとつ、水戸藩ならこの程度のことは元服の時もわかっていたんじゃないか、という疑いも生じます。一橋家の相続は将軍になる可能性が高く、その前提で「慶喜」の名が付けられているはずです。なんでその時に「ヨシノブ」を変える話が、水戸藩側から出なかったのか?
さらに慶喜の名を決めたのは、当時の水戸藩か幕府のえらい人でしょう。今さら徳川家内部から、名前を変えろと言い出すのはどうなんだ、という疑問は出てきます。
この案を取るとすると、慶喜は表面上は将軍就任を拒む素振りを見せつつ、実は慶喜と徳川家内部では将軍就任が固まっていた、とするほうが収まりがよくなります。さっさと決めた可能性もあるとはいえ、徳川家内部で前例をよく知る人たちで、十分に調整検討する時間が必要に思えます。
4ヶ月の空白期間は、将軍就任を盤石にするための準備期間であったと考えれば、改名の進言から改名案の検討決定まで十分な時間があります。
孝明天皇など朝廷側からの進言
この可能性もシナリオとしてありえます。
足利義教の改名事例を出しましたが、その時「改名」案のいくつかは朝廷側から出されています。前例を持ち出して改名を進言するのは、いかにも朝廷がやりそうなことです。
また、征夷大将軍を任命するのは天皇です。立場上も慶喜に対して「名前がよろしくない」と言える立場にあります。
慶喜がいったん拒んだ将軍を受け入れたのは、孝明天皇からの強い要請があったから、とも言われています。朝廷から言われて将軍を受け入れたのであれば、朝廷から言われて名前を変えたとするのは極めて自然です。
ただ、この案も疑問があります。
朝廷側からの進言であれば、誰かがその記録を残していてもおかしくありません。幕府側としては「朝廷の進言により改名」と残すことで、将軍就任の正当性が強くなります。天皇を敬う水戸藩の人たちにとって、この記録は極めて価値があり、残す可能性は高いのではないでしょうか?
この案を取る場合、慶喜は将軍になる気はなかったが、天皇に強く要請されたので受け入れた。改名については内々の打診なので、記録には残さなかった、という流れにするのがはまりそうです。
慶喜自身
二つの案はいずれも改名は他人が進言するもの、という前提に立っています。
けれども、考えてみれば、「ヨシノブ」の名前にまつわる前例を一番よく知っていたのは、慶喜自身だったかもしれません。
水戸藩はただでさえ教育熱心な上に、慶喜は相当優秀な人物だったようです。勉学も運動も何をやっても抜きん出た人でした。
十代で慶喜の名をもらったあと、歴史上の「ヨシノブ」について自分で調べたというのは十分考えられると思います。
自分と誕生日が同じ有名人を調べる人も多いと思うのですが、そんな発想で自分と同じ名前の足利将軍や、武田家嫡男にたどり着いた可能性はあるでしょう。「なんか縁起が悪いぞ」などと思ってもおかしくありません。
さらに、この足利義教(元は義宣)という将軍は、かなり横暴な人です。おそらく江戸時代の彼の評価も、よくなかっただろうと思われます。
こっからはかなり妄想が入ります。
慶喜は、特に父親の斉昭から、将軍になるのだと散々言われてきました。慶喜は「将軍なんて骨が折れるので成らない方がよい」と、わざわざ書面で拒否しています。
「だってヨシノブという名前からして、将軍にふさわしくないもん」と、独り言を言う、そんな風景はドラマや小説なんかに使えそうです。
十代二十代の男が、周りから「いつかは将軍」と言われれば、かえって反発するのはありそうです。
一方で、「いつかは将軍」と刷り込まれていますので、意識はしていたでしょう。自分が将軍になったら、と発想したことはあったと思います。
私は、「将軍」を巡ってかなり複雑な心情が、慶喜の中にずっとあっただろうと考えます。
「本当に将軍になるなら、名前は変えないとな」と、一度は考えていたと妄想するのはありでしょう。
徳川家茂が亡くなってしまい、いよいよ皆が将軍就任を要請してくる。その時の慶喜の複雑な心情は、常人が推測できる簡単なものではありません。
将軍を拒む気持ち、将軍を受ける気持ち、どちらも自分の中にあった本心で、4ヶ月間は葛藤の時期だったと、3つ目のシナリオからは、そんな風景が浮かびます。
最後の最後に将軍就任を受託したとき、「将軍は受けるけど、名前だけは変えさせてね」と慶喜自身が言えば、誰も反対はせず、記録にも残らず、検討の時間も必要ありません。
この3番目の案は、意外とおさまりがよいと思うのですが、いかがでしょうか?
まとめ
慶喜は将軍就任時、「ヨシノブ」から「ヨシヒサ」に改名しました。
この件は、文書から明らかだった割に、注目度が低く、その背景が深く検討されて来なかったように思います。
私も最初は「まさか」とスルーしてしまい、そのあとは気になってはいたが、手をつけずという状態でした。
やがて、この将軍就任時期の「改名」が本当だとわかり、改名ってそんなに簡単なことじゃないよなとなって、今回の妄想に至りました。
私なりに以下3つの案を検討してみました。
慶喜家臣など徳川家内の進言
孝明天皇など朝廷側からの進言
慶喜自身
どの案も可能性があり、これ以外の案もありえるでしょう。
徳川慶喜という人は、とても複雑な人で、調べれば調べるほどわからなくなる人です。慶喜を考えるテーマとして、「慶喜は将軍になりたかったのか否か」という命題があります。
私はこのテーマをずっと考えているのですが、正直まったくわかりません。
今回の記事の発想は、もし自分が慶喜の物語を考えるとすると、3つの案で、どんな慶喜になるか、という視点で分析してみました。
ヨシヒサ改名問題を探る中、3つ目の案に行き当たると、若い頃から表面上は将軍就任を断りつつも、ずっと将軍を意識してきたという慶喜に行き当たりました。
私自身は、この3つ目の案が好きです。
慶喜自身が改名を決めた。なぜなら彼自身がヨシノブという呼び名が将軍にふさわしくないのを知っていた、という妄想です。
全体におさまりがよいように思いますし、将軍について考え込むヨシノブはワクワクします。
さて、皮肉なことに慶喜は改名したあと、大政奉還で幕府を終わらせ、官軍との駆け引きに負けて、「世を忍ぶ」ことになってしまいます。
その後は誰よりも長生きをして、悠々自適な余生を送りました。呼び名は「ケイキ」を使い、「ヨシヒサ」も「ヨシノブ」も使っていなかったようです。慶喜は、「ヨシヒサ」であった自分をどんなふうに振り返ったのでしょう。
参考までに、過去のブログ記事で慶喜の名前の一覧表を作成していますので、掲載しておきます。
以上
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