何もないではなく
朝晩の空気が季節の移り変わりを告げ、1日が心地よいと肌寒いを行ったり来たりする形容し難い日々になりました。だけどこの季節とっても好きです。
心地よい陽射しと澄んでる空気が、自分の体の中の鮮度をリセットしてくれるような感覚があります。さぁ今日も始まるぞみたいな活力へと変化してくれます。
夏の強い日差しも、冬の凍てつくような寒さも、春の暖かさも、秋の儚げな空気も、きっとそれらにはそれぞれの役割があるだと思います。
最近いろんなSNSやネット媒体を見ていて、改めて感心してしまうことが多くありました。それは、自分自身のリアルな日常そのものを一つのコンテンツとして、それを動画にしたり、記事にしたり。そしてそれを見る人(自分もその中に含まれる)がたくさん存在している事実。
以前は芸能人のプライベートなんて知る良しもなかったし、それこそ知らないことがある意味でその人のミステリアスな部分に寄与し、より付加価値が高まっていたように思う。
だけど時は過ぎ、今は真逆でその人のプライベートな部分こそ人が見てみたいと思ったり、何かを挑戦している姿や、等身大のいい意味でのカッコ悪さや素の自分を曝け出すことで、応援されたり視聴者や読者との距離が縮まり、新しい価値の創出がされているように思います。
朝一定の時刻に起床して、顔を洗い身支度を整えて、ご飯を食べる。カバンを整理しながら今日の1日を確認し、通勤。業務を行いお昼を食べ、残りの仕事を片付ける。日暮と共に帰路に着く。街の移り変わりを確かめるように。晩酌のビールを片手にテレビを見る。頃合いを見て風呂に入り今日の簡単なセルフフィードバックと同時に明日への思考を巡らせながら就寝。
何気ない一日。自分から見たら普遍的で平凡な日々なのかもしれない。そこからなにが生まれるのか。その先になにがあるの。それ以上でも以下でもなく。
だが人はとても面白いことに、自分以外の人のプライベートな部分に以外と高い関心を寄せている。実際自分もそうかもしれない。youtubeで流行っているモーニングルーティーンや、部屋紹介、自分の趣味について熱く語るなど、どこまでも自分じゃない他人の日常を見ていたいという不思議な欲求を持っているのではないだろうか?
そしてSNSという媒体が何もないと思っていた日常を、ある日突然光に満ち溢れさせる可能性を秘めている。それはごくわずかな人なのかもしれないが。
背伸びする自分も時としてとても大切だと思う。だけどそれ以上に今必要なのは、等身大の自分と向き合って自分の可能性を自分で信じてあげられることなのかもしれない。
そしてそれを批判するでもなく、擁護するでもなく、見守り応援したいと思うかどうか。
人は辛い時や苦しい時ほど誰かがそばにいて欲しいと思うし、背中を押して欲しいとさえ思う。そして隣の芝生をつい見てしまうし、見たら見たで劣等感とか自分の井の中の蛙っぷりを感じてしまう。その反面、もっと頑張ろうとも思える。
誰かが自分の人生の代わりになってくれることはないし、自分達もまた誰かの人生を代わってあげることはできない。
自分自身が自分の最大の応援者になれることが大切なのかなと思いながらも、哲学的なことをふと思って綴ってしまったが、最近こうした物思いに耽る時間ががなかなか見出せなかったので、深夜2:00に思う今をこうして書き記してみました。
はよ寝ろ。