「学校で教えて貰ってない」と実学志向の危険さ。
テレビを見てたり、話をしていたりする中でたまに耳にするこの言葉、「学校で教えて貰ってない」これって凄く怖いなぁって思うんですよね。
自分がそういう業界に元々志望が強いのと、今現在その業界に曲がりなりに存在しているってことから、感度が高いのかも知れないし、怖いと思うのかも知れませんね。
勿論、学校って知識を学びに行くところではあったんですけど、法律に書かれている学校って何かと言うと、「(前略) 教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。」(教育基本法第六条二項)ってことなんです。
じゃあ、法律で言うところの教育の目的は何だと言うと、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」(教育基本法第一条)と書かれているように、「人格の完成」なんですよね。
って書いてて、「読みにくい」って思った貴方。正解です。自分でも嫌になりました。すぐに突き詰めて書いちゃう癖があるんで直したいんですよねぇ。本来の仕事がどうしても拘るところがあるので、ついつい硬くなりがちなんですよね。直していかないと。
まあ、どうであれ、学校って社会に出るために必要な知識だけを教えるところではなく、「人格の完成」を目指すところなんですよ。これはここ75年近く変わってないことで。あと、自分が子どもの時に学校で教えて貰う知識だけで社会を乗り切れるなんて誰も言ってなくて、あくまでも、受けている時代に必要な最低限のことを学ぶのが学校なんです。あと、社会性とかそういったものも。
あと、前の記事にも書きましたけど、技術の進歩で教育の考え方変わってくるんですよね。なのに、「学校で習ってない」ってのは違うよなぁって思います。あくまで基礎の基礎なんですよ。学校で習うのは。
それも、今は生涯学習とかも相まって、「学校で習ってない」ってナンセンスな言葉なんですよね。実際のところ。
勿論、学校で教えるべき内容も変化していっているんですよ。まあ、情報通信関係なんて教えてなかったですからね。今までは。
最近、学校で習う古文・漢文は何の意味があるの?って、Twitterでの投稿がありましたが、他にも、三角関数、微積、ベクトル、歴史、化学記号…。何が社会に出て役に立つの?って思っているかも知れません。そう書く僕もこれってなんの役に立つのだろうって思っていたこともあります。
なんとなく抽象的にやってることなのかなって思うんですよね。実生活で上に挙げた項目って直接的には出てこないんですよね。だからと言って、必要でないかと思ったらそうでは無く。
以前の記事で取り上げましたが、「知識の氷山モデル」でわかるように、今意識してないことが意識になって現れるまでには膨大な知識が出てくるんですよね。学校の教育ってそこをやっていると思って貰ったら良いのかと。
言い換えれば、自分で判断するための基礎の部分だと思うんですよね。だから、その知識そのものが直接必要になるってことは学年が上がるにつれて正直少ないですよ。でも、意識にも現れない考え方の中にその習ったことが入っているはずなんです。
で、話が変わって、僕が危険に思っているのが「実学」って考え方。
大学って専門的な知識を習い、自ら問いを立てて考える場所なんですけど、その大学の一部がやけに実学って言葉を推すんですよね。
抽象的なものではなくて、具体的で即効性のあること。それを求める気持ちも分かるんですけど、本来、専門知識ってのは、それだけ理解しているのではなくて、世の中との対比でいかにこの知識やひいてはこの学問が大事かということを世に問い続けないとダメだと思うんですよね。
自己のことを言うことも大事ですけど、世の中や他の人との対比を通じて自己理解すると言うのと同じように、この知識は今は直接的には関係ないけど、知っておくことで他の知識や考え方の一助になるって思うようなものにしていかないとダメな気がします。
だから、実学だけってのは怖いんですよ。僕が思うに。
一見役に立たないことが本当の時に役に立つなんてことありますし、抽象的な考え方が実際のピンチに面した時には役立つなんてことは往々にしてありますし。
この辺はまた深く掘り下げてみたいと思います。