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♪ 雑記 ~ 名字、変わりました ~

オチのない雑記 _ 2022.8.27


この世に誕生してから27年間使ってきた名字は、もうすっかり自分のものではなくなっていた。

結婚してから使ってきた名字のほうが年数的には短いのに、なぜだろう、前の名字に戻ったことに違和感しかない。

きっと、これから少しずつ前の自分に戻っていくのだと思う。



離婚については、10年以上も前から考えていたことで、現実的に考えて「本当に実現できることなんだ」と確信したのは、父が亡くなって遺産相続をしたときのことだった。

過去記事『愛とか 前世とか 美影意志とか』に書いたように、お互いに相手との生活に違和感を持ちつつ、歩み寄ろうと努力はした。伝えたし、譲歩もした。それでも、変えられない部分がそれぞれにあって、どうしても埋められない溝となっていたのだ。

だけど、離婚すれば子どもたちが傷つく。子どもたちが今までどおりの生活を続けられなくなる。なによりわたし1人で子ども2人を養えるほどの財力も仕事もない。まだ母親でいたい。子どもたちの成長を見届けたい。ただその一心で、子どもたちが大人になるまでは我慢すると決めた。

子どもたちが不自由なく暮らせること。栄養のあるごはんを毎日食べられて、安心して眠れること。困ったときにすぐ助けを求められる距離にわたしがいること。ただ、それだけ。

我慢といっても、24時間365日ずっと無理をして この家にいたわけではない。子どもたちはいつでも愛しい存在だったし、子どもたちのためにしてあげるすべてのことは、全く苦にならなかった。

ただ、「なぜわたしはひとりで頑張っているんだろう」と思うことが多かったように思う。



わたしの目から見た元旦那は、「自分は外で稼いでいる。たいした仕事もせずに家にいる妻が家事をするのは当たり前だ」と思っているように見えた。元旦那の父親がそうであったように。

だから、家事をいっさいしようとせずに、育児にも協力的ではないのだと思っていた。

しかし、わたしが保育士をしていた4年間、一番最初に家を出て一番最後に帰宅するという日も、在宅ワークで仕事が詰まってフラフラになっている期間も、元旦那は少しも変わることなく、いつもどおりだった。

「専業主婦と亭主関白の夫」のつもりでいるのだと思っていたけれど、わたしが仕事をしていても家事をやらない、まったく協力しようとしないのはなぜ?   仕事云々ではなくて、単に「家事と育児は妻がするもの」そう思っているみたいに見えて、理解できなかった。

それに、大人なら当たり前にできているであろう生活習慣が、小学生並みにできていなかった。「戸を開けたら閉めて」「帰ってきたら靴を揃えてあがって。玄関に鍵をかけて」「床に食べ物を落とさないで。落としたら拭いて」「トイレを汚したら掃除をして」…… わたしが子どもに言っていることと同じことを約25年間言われ続けてもできない元旦那は、実は「そんなことできなくても生きていける」と思っていて、わたしの言葉を反抗期の子どものように「うぜー」と思いながら聞き、「とりあえず返事しとけばいいや」と思いながら「はーい」と言っているのだと思っていた (実際に、怒られて すねた子どものように「はーい(。´・ε・`。)」という返事をする)。


娘が就職してこの家を巣立っていったのが2021年の4月。そのあとから、わたしひとりが空回りしているような この家で、まだ自分の存在は必要なのかと考えることが増えた。

元旦那も息子も、わたしの意見や注意など聞かずに(実際には返事をするので聞き流している)、家族への思いやりなど微塵もないのではないかというように自分勝手に生きている。

勝手に出てくる夕食。洗濯機に入れたら綺麗になって戻ってくる服。いつも綺麗に掃除された部屋。食べたいものはいつでも冷蔵庫に入っていて、生活必需品のストックがいつでも用意されている生活。

それを当たり前だと思っている。わたしは何なの? ずっと死ぬまでこれが続くの?と。

これを読んでいる人は、「そう思うなら、ちゃんと相手に伝えればいいじゃん」そう思うかもしれないが、伝えたのだ。何度も何度も。

でも、そのときだけ「はーい」と返事をして言われたことをやり、次からはまたいつもどおりに戻ってしまう。そもそも、「家事は俺のすることではない」「言われたから手伝ってやった」という感覚なのだから、何度言われようと変わらないのだ。その根本的な部分の違いを、わたしは結婚してからずっと、埋めることができなかった。

そんな中、4月に息子が19歳ながら成人となり、8月の初め、わたしの注意やアドバイスをまったく聞こうとしない息子を見て、もう限界だと感じた。

わたしから伝えられることは、もう何もない。何を言っても、今は伝わらない。今まで伝えた大事なことはきっと、ずっとあとでじんわりと効いてくるのだろう。でも、それでいい。もう世話を焼く母親は卒業しないと、旦那と息子のためにならない。

だとしたら、もうわたしがここにいる意味はない。解放されてもいいんじゃないだろうか、と。


離婚を決めたとき、それまでわたしの愚痴をずっと聞いてくれていた友達が、こう言った。「旦那さんにとって、のりちゃんはずっと『ママ』だったんじゃない?」と。それを聞いたとき、すとんと腑に落ちたように感じた。

ああ、そうか、わたしはずっと、元旦那の母親役だったのかと。そう考えれば、すべて納得できる。

子どものためなら頑張れる、母親からの無償の愛。それと同じものをわたしから与えてもらえると、元旦那は思っていたのではないか。だから、子どもと同じようにわたしに躾をされ続け、家事を全部やってもらって、ただ仕事をすればいいだけの生活になっていたわけだ。

「亭主関白」だの「妻が家事をするもの」だの、そんな考えなんかじゃない。単に、「家事はめんどくさいから」「ずっと子どもでいたほうが何でもやってもらえるから」なわけだ。

子どもたちが成長していくにつれて、元旦那は子どもたちと並列になってしまっていた。1人の大人として、娘には追い抜かれたんではないかとさえ、思ってしまう。

過去記事「子育ては楽しいですか?」に書いたように、元旦那は父親になりきれなかった。それは、わたしが最初から彼を甘やかし、父親になる機会を奪ってしまったせいかもしれない。


8/5(金)、離婚を申し出、了承してもらう。
8/21(日)、離婚届を提出。
8/23(火)、引っ越しをして、新しい生活をスタート。

ライフラインの手続きは当たり前だが、浄水器をつけたり、プリンタとパソコン、テレビとDVDプレイヤーをつなげたり、すべての手続きを自分でやるのはけっこう大変な作業だ。それに加えて、名前と住所の変更の手続きが山ほどあって、気が遠くなりそうなくらいだ。

やっと昨日、電化製品とソファベッドなどの家具が届き、なんとか生活できる部屋となり、自炊をスタートさせることができた。

ちなみに、引っ越しから5日目だが、まだインターネットがつながっていないので、Switchのネット対戦もできなけりゃ、パソコン教室オンラインもできない状態である。この記事のトップ画の日付が違っていても修正できないのは、そのせいである。(※8/31にネット開通、9/1画像修正)

でも、24時間を自分のペースで自分の好きなことに使える自由さに、すごくわくわくしていて、楽しみで仕方がない。今までやりたくてもできなかったことを、1つずつやっていきたいと思う。幸い、亡き父が残してくれた後ろ盾があるので、今はしっかり勉強して、仕事面で自立できるように頑張ろうと思う。

そして、父だけでなく、月1で女子会ランチをする友達も、大っぴらに言えない愚痴を聞いてくれていつも応援してくれる友達も、「よぼよぼのおばあちゃんになっても心の縁側で一緒にお茶を飲むよ」と言ってくれる仲良しさんも、ゲームを一緒にしてくれる愉快な仲間たちもいる。しあわせだ。感謝しかない。

それと、もう1人。23歳の娘が、わたしのいちばんの理解者でいてくれることが何よりも嬉しい。旧姓で新しく戸籍を作る話をしたときに、「わたしがその戸籍に入ることはできるの?  お母さんに何かあったときに、親族扱いされないのは嫌だから」と言ってくれた(感謝を伝えて丁重にお断りした)。

世話焼きの母親を卒業しても、子どもたちは愛しい存在であることにずっと変わりはない。音大の息子のトランペットも、娘が今も続けている演劇も、わたしが2人のいちばん最初のファンだった。ファンクラブ会員番号 1。これは変わらない。これからもずっとファンで居続けると思う。

最後に、元旦那への感謝を書いておこう。
24歳のとき、行き場のないわたしを拾ってくれ、一緒に住んでくれた。折半した家賃が払えないときも、嫌な顔せずに払ってくれた。わたしが体質やいろんなことを理由に外で働かないことを許してくれ、ずっと養ってくれた。長い間、安定した生活をくれて、ありがとう。


離婚なんて別に公表しなくたって、今までどおりTwitterもnoteもできるのだけれど、今後わたしが発する言葉が少し変わってくると思うから、一応、両方に公開することとする。

いろんなご意見があると思うけれど、どうかご理解ください。

そして、引き続き仲良くしてくれたら嬉しいです。

最後まで読んでくれてありがとう。



〔おまけ〕
引っ越しのために片付けをしていて見つけたものを2つ。

しょーちゃんマン

息子が幼稚園に泣かずに行けるように作ったマスコット「しょーちゃんマン」。
幼稚園の制服を着て、手に大好きなケーキを持っている。マントの色は息子が大好きだった緑色。これを幼稚園の指定カバンにつけて通っていた。


娘からの手紙

手紙を交換するのが流行っていた幼稚園の頃、娘がくれた手紙。これを見つけたことを娘に話して、「こんなセリフ、生まれて一度も言われたことないと思ってたよw」って笑ったら、娘も「わたしだって、こんなセリフ、生まれて一度も言ったことないと思ってたわw」って笑っていた。

「いないと かなしかった」は、おそらく元旦那に娘を預けて、わたしが息子のことで動いていたからだと思う。それぐらい、わたしと娘はいつも一緒だった。


娘と息子の過去記事も置いておくので、興味のある方はお時間のあるときにでも。


★娘が学校で嫌がらせを受けたときの話


★息子とトランペット







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NORI
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