note 100日連続更新を迎えました
note もおかげさまで、今日で100日連続更新を迎えた。一つの通過点ではあるが、まずは無理なくここまで続けてこれたことに「お疲れ様」を言いたい。何かの機会で読んでくれたり、反響をくれる人に対しても「ありがとう」の気持ちです。
100日は長いようで意外と短い。おそらく自分が歳をとったせいか、時の流れが非常に早くなっているのもあるんだろうな。
という訳で、せっかくなので他の人もやっているように、僕も例に漏れず更新を続けているうちに自分に起こった変化を、一度書き残しておこうと思う。
起床時間の定着
まず、起床時間が定着した。
以前まではその日その日で起床時間もまちまちだったのだが、本格的に note を更新するよう決めてから、また継続が叶い出してからは、目覚ましなしで「毎朝7時起床」が完全なデフォルトになった。
前の日にどんなに飲んでたり遅く寝たり体調がすぐれなくとも、この毎朝の起床時間だけは肌に染み付いているのか、自然と目が覚め、それ以降の二度寝などをする事もなくなった。僕は基本的に朝起きてから少しゆっくりしたのち文章を書き始めるので、一日のサイクルを逆算した時にこの時間に起きるのが、一番肌に合っているのかも知れない。
感情の安定化
言わずもがなだが、自分の考えている事を惜しみなく吐き出し続ける事で、デトックスのような効果をもたらしつつ、さらには「文章資産」として残っていく快感とともに、感情も非常に安定し出した。
感情が不安定な時も、できるだけその不安定な感情に蓋をせず書き出すようにした。すると書き終わる頃にはかえって精神が落ち着くといった現象が訪れた。
人は不思議なもので、頭の中にある抽象的なイメージをそのままにしておくよりも、無理やりにでも文章に一度落とし込んでみると、その行為自体が再インプットを促し、以降は同じ事を考えるにしても、自然と頭の中に具体化されたイメージが浮かび上がってくる。
忘れまいとメモを取った時点で、メモを見返さなくとも記憶に残るのと同じ要領だ。
自分が考えている事を「外付けハードディスク」に書き出したという安心感が、そうさせるのかも知れない。
もちろんすべてがすべてではないのだが、自分の考えている事を不確定要素が高いまま放っておくよりは、ある程度ロジカルにまとめ上げておくに越した事はない。僕の場合は、"遺している" という安心感が、さらなるリラックスを生み、どんどん感情の不安定な起伏がなくなっていった。
一貫性の促進
内省化した自己を出力する行為は、ある程度の "不遜さ" も覚悟する必要がある。記事の中には「なんか説教くさくなったな」と思うものもあるので、言ったからにはその後の言行に責任を持てよ、と自分に言い聞かせる機会も多くなる。
その結果、言行の一致、一貫性を自ずと意識するようになった。
更新すればするほど掲げた視座に追いつける自分になれるよう、吐いたツバを飲み込まないために、日々自律心を養う局面が増えた。
観察力の強化
人・物・事象問わず、「観察する」という癖はより一層大きくなった。可能な限り自分が無意識的に感じた事に対し、できるだけ見逃さず、解像度を上げて深層に潜り込むようになった。
今感じた違和感の正体はなんなんだろう?や、このじんわりした喜びの正体は?…などを、ないがしろにせず丁寧に観察するようになった。
これはネタのストックという意味合いもさる事ながら、もともとから備えていた "自己を知りたい" という欲求が「note の更新」という大義名分をもってよりブーストされたのかも知れない。
更新の習慣化は、自分の思考のクセ自体も都度観察させる。
観察は冷静を生む。そのおかげか、大きな凹みに至る前に「何をすれば自分の機嫌が取れるか」を常に考えるようになった。
その結果、早い立て直し(レジリエンス)も効き、先述の感情安定に対しても大きな恩恵をもたらしてくれている。
他者とのコミュニケーションの円滑化
記事の方向性やそれぞれのコンセプトにもよるが、ある目的を持って構築されていった文章類は、書き言葉であれどんどん自己脳内にストックされていき、他者との会話時にも自然と口をついて出てくる。ついては無理なく自分の意見を伝える機会が増えるようになった。
ある程度淀みなく言葉が出てくることは、それだけで生きるストレスを大きく軽減させてくれる。
前述した「外付けハードディスク」から適宜データを引っ張ってくる感じで、記事の内容をいつでも引き出せる安心感が、より自身に落ち着きをもたらしてくれているのだと思う。
ゾーンに入りやすくなった
観察が深まったことから「今ここ」に集中できるようになり、自分の動きをより細分化して切り取り見つめるようになった。集中力が増すことで、没頭する機会が増え、周りのノイズも見てくれもあまり気にならなくなった。
これは同時に行なっているヴィパッサナー瞑想も相まって、より効果を発揮しているのかも知れない。
さいごに
こうした形で「遺していく」作業は、ぼーっと過ごし浮かんだら書く、というライフスタイルのままではまずネタも浮かばないだろうし、僕の場合はすぐに怠惰に任せてしまうので、最初の頃はある程度の強制力を課して書くようにした。
上手く言葉としてつむぎ出せない時もあるが、それでも良いと思っている。
他の人の記事を読み、見事な文章力や洞察力に降参するしかない心境になる時もあるが、それでも良いと思っている。
散々こすられてきた Tips だが、まずは手を動かしてみる事。どんなに稚拙と感じたとしても、いったん書き上げる事。
僕の場合は「少し前のめり」の意識で書き始めると、思考が刺激されるのか、テーマの採用可否が前向きにジャッジされ、あとは走り出した車輪のペースに任せて自然に言葉が連なり始め、気がつけば書き上げている。
目を閉じて頭の中に浮かんだイメージをもとに辛抱強く待てば、言葉も徐々にゆっくりと浮かび上がってくる。それらを手繰り寄せるように、イメージに一番合いそうな言葉の数々を選んでいく作業は楽しい。仮に出てこなくても貧困な文章になったとしても、それがリアルだから別に良い。
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僕は、一貫して『親愛なる人のために』綴っている。
もちろん記事を外向けに書いている以上はいろんな人に見られる事が前提ではあるのだが、書く事に混乱してきた時にはいつもこれを思い出すことで、我に帰ることができる。
ここまで連日の更新が叶っているのだが、「書くために書く」「書く事に縛られ苦痛になる」といった事態にだけは陥らないよう、引き続き気楽に素直に、感じた事を綴っていけたらなと思う。
今日はこんなところで。