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ノーベル財団の介入とスウェーデン・アカデミーの改革

ノーベル文学賞が消えた日』(平凡社、2021)を訳したあと、私の頭の中にはスウェーデン・アカデミーについて疑問や不満がいくつか残った。例えば、A)「なぜいつまでもスウェーデン・アカデミーがノーベル文学賞を選考しているのだろう?」ということ。

『ノーベル文学賞が消えた日』にはこんな記述がある。

スウェーデン・アカデミー初の女性事務局長が追放された〔注:2018年4月12日〕というニュースは、世界中に広まった。すぐさまノーベル賞全般に責任を持つ組織が反応した。ノーベル財団だ。
 何人かのアカデミー会員を前にして、ノーベル財団は二〇一八年のノーベル文学賞の発表を中止する提案をおこなった。
……
 五月四日、二〇一八年のノーベル文学賞の中止が決定された。第二次世界大戦以来、こんな事態は初めてだった。
 二〇一八年初夏、ノーベル財団はまったく新しいノーベル委員会の設立を要求したが、スウェーデン・アカデミーは反対した。しかし、ノーベル財団が他の機関に授賞者の選考を委任する可能性はある。このことを考慮してアカデミーは、授賞者の選考に外部の専門家が加わるという妥協点に到達した。

 だよね、別にスウェーデン・アカデミーが引き続きノーベル文学賞を選考しなくてもええやん、他の機関に任せれば……と私も思ったのだが、どっこいそうは簡単にいかないらしい。

 各ノーベル賞をどの機関が選考するかは、ノーベル賞創設者にして大富豪のアルフレッド・ノーベル〔1833-1896〕の遺書に明記されている。その遺書を実現するためにノーベル財団が1900年に設立された。財団規約はノーベルの遺書に基づいている。そしてそこには「文学賞はスウェーデン・アカデミーが担当する」と定められているのだ。

 余談だが、『ノーベル賞の舞台裏』(ちくま新書、2017)によると、賞の発足当初、ノーベルの遺志は”迷惑な遺産”だったそうだ。「それは、医学生理学のカロリンスカ研究所をはじめ、選考機関が事前の接触なしに、勝手にノーベルの遺言によって、重要な賞の受賞者選考という重責を負わされたからだった」

 ところが賞の発足から100年以上経った現代では、ノーベルの遺言は選考団体に恩恵を与えているようだ。

 2018年8月17日、ダーゲンス・ニューヘーテル紙は「ノーベル財団とスウェーデン・アカデミーの書簡の一部を入手した」と報じた。
 2018年6月15付のノーベル財団からの書簡にはこうある。
「この春のスキャンダルはアカデミーの威信を傷つけた。アカデミーの信頼が回復されない限り、スウェーデン・アカデミーは新しいノーベル委員会を立ち上げるべきである」

そして三つの要求を突き付けた。

1)ノーベル文学賞選考委員会はスウェーデン・アカデミーから完全に独立して受賞者を決定すること。
2)過去半年間の出来事で不評を招いた者を委員にしないこと。
3)ノーベル文学賞選考委員会には、選考経験を持つスウェーデン・アカデミー会員と外部からの専門家が含まれること。

  非常にわかりにくい表現だが、ノーベル財団の本心を翻訳(?)すると、

1)ノーベル文学賞の選考はスウェーデン・アカデミー以外の組織に任せたい。
2)それが無理なら、せめてホーラス・エングダールは選考委員から外してくれ。
3)それから、委員会のメンバーはスウェーデン・アカデミーの会員だけに限定せず、外部の人を入れてくれ。

 ノーベル財団とスウェーデン・アカデミーのあいだでは激しい議論が繰り広げられたらしい。残念ながら議事録が公開されているわけではなく、ダーゲンス・ニューヘーテルは「情報源によると」ということで記事にしている。スウェーデン・アカデミーは、ノーベルの遺言やノーベル財団規約を盾に徹底抗戦したそうだ。

 その結果、

1)ノーベル文学賞選考は引き続きスウェーデン・アカデミーがおこなう。
3)ノーベル文学賞選考委員会は、スウェーデン・アカデミーの会員たちと外部の専門家5人で構成される。期間は2年間。

という妥協案に落ち着いたことが、2018年11月18日に発表された。

2)については時間がかかったようで、2019年3月にようやくエングダールはノーベル文学賞選考委員を辞任している。

B)低下したホーラス・エングダールの影響力
 
私は『ノーベル文学賞が消えた日』の「訳者あとがき」で「残念だと思うのは、ホーラス・エングダールがアカデミー会員に居座っていることである」と書いた。それは事実だが、現在では彼の影響力はかなり削がれているようだ。ノーベル財団からの要求を受け、ノーベル文学賞選考委員を辞任している。
 ただ、この発表は2019年3月5日であり、ノーベル財団の手紙から9ヵ月近くかかっている。2018年11月に発表された、新制度でのノーベル文学賞選考委員会のメンバーには彼の名前が載っているくらいだ。2018年6月から2019年3月まで、水面下で「辞めろ、辞めない」の駆け引きがあったのだろうと想像する。

 公式には「自分の判断で辞任を決意した」と発表しているが、権力大好きなエングダールにとっては屈辱だっただろう。ノーベル文学賞発表時には原則として全会員がアカデミー会館に揃うのが慣例なのだが、2019年10月、エングダールはその後の記者会見に参加せず裏口から退出した。また2021年10月のノーベル文学賞発表の際にはストックホルムにすらいなかった。

 2018年4月までスウェーデン・アカデミー内で横車を押しまくっていたエングダールの姿は、社会には好意的に取られていないようだ。2021年11月14日付のスヴェンスカ・ダーグブラッデト紙の記事は、ドイツ・ベルリンにあるスウェーデン・アカデミー所有のアパートに住むホーラス・エングダールにインタビューしたものだが、こんな文で始まっている。
「(スウェーデン・アカデミー内紛中に取った行動のせいで)ホーラス・エングダールの名前はショーヴィニズムと傲慢の代名詞になった。現在、彼は公的なシーンから姿を消している」

 さて、次からはノーベル財団の肝煎りで始まったノーベル文学賞選考委員会の改革について見てみよう。

c)ノーベル文学賞選考委員会 2018~2019年
 2018年11月18日、新しい制度でのノーベル文学賞選考委員会のメンバーが発表された。
 外部からの5人の専門家は、Gun-Britt Sundström, Kristoffer Leandoer, Rebecka Kärde, Mikaela Blomqvist そして Henrik Petersen。
 スウェーデン・アカデミーの委員は、アンデシュ・オルソン(委員長)、ペール・ヴェストベリ、クリスティーナ・ルグン、イェスペル・スヴェンブルーそしてホーラス・エングダール(2019年3月5日に辞任)の5人。

 そして2019年10月10日、2年分のノーベル文学賞受賞者が発表された。2019年の受賞者はオーストリアの作家、ペーテル・ハントケ。この発表は国際的な抗議につながった。ハントケは旧ユーゴ紛争最大の戦犯とされた故ミロシェビッチ元大統領を擁護していることで知られていたからだ。

 この受賞者選考をめぐって外部専門家だった Gun-Britt Sundström と Kristoffer Leandoer が2019年12月にノーベル文学賞選考委員会を辞任した。いずれもハントケの受賞に反対しており、Leandoerは「外部メンバーの権限は限られていた」と苦情を述べている。

 スウェーデン・アカデミー会員内でも意見が割れていた。(ダニウス支持者だった)ペーテル・エングルンドはこれに抗議して式典を欠席すると表明したが、(いつでも悪役の)ホーラス・エングダールはハントケの受賞を支持すると発言した。
 また、(ノーベル財団とやりあっていた)アンデシュ・オルソンは「ノーベル賞選考委員会の外部メンバーの補充はしない」ことを発表した。

 ……このへんの各人の行動、「やっぱりね」という感じです……。

D)ノーベル文学賞選考委員会 2020年~
 外部委員を用いるという2年の期間は終了し、ノーベル文学賞選考委員は再びスウェーデン・アカデミー会員だけが務めることになった。

 その一方で、選考委員の任期も原則3年となった。ただし、更新は可能で、その後3年間の空白があれば、また委員を務めることができる。つまり9年間に6年間はノーベル文学賞選考に携われるのだ。

 選考の透明性を高めるためには委員のローテーションが望ましい。3年後、どれぐらい顔ぶれは変化するのだろうか?
 一方、アンデシュ・オルソンは2020年10月20付けの新聞記事で「今後、ノーベル文学賞選考委員会にホーラス・エングダールが復帰する可能性はある」と発言している。
 現在の委員は以下のとおり

アンデシュ・オルソン(委員長)
Ellen Mattson
イェスペル・スヴェンブルー
Anne Swärd
ペール・ヴェストベリ
Mats Malm (補助委員、スウェーデン・アカデミー事務局長)

E)スウェーデン・アカデミー会員の終身制は廃止されるのか?
  前回のブログにも書いたが、私がいちばん気になるのはこれだ。なぜなら終身会員制こそが腐敗の原因だからだ。
 この危機感はノーベル財団も持っており、スウェーデン・アカデミーに改革を要求している。とりあえず「会員資格を任期制にすることが可能かどうか調査する」という点では同意しているそうだ。まずは各委員会に任期をつけることから始めるという。ノーベル賞選考委員会に3年の任期がついたのはその結果だ。

 2019年の報道だが、アンデシュ・オルソンは会員資格の任期制には強く反対している。彼が要職に在任中は、会員の任期制は実現しにくいだろう。

 スウェーデン・アカデミーの会員は、2018年のスキャンダル以後、18人中の半数が入れ替わった。いわゆる中産階級のエリートだけでなく、外国生まれの詩人やジャーナリストなども選ばれている。それゆえ批評家からは、現在のスウェーデン・アカデミーはスキャンダル時のアカデミーとは別の組織になった、という声も聞こえる。
 だがそれは、「もう*十年もやったから」と自主的に会員を辞める人が出るまでは断言できないのではないか、と私は考える。

F)元ノーベル財団理事長 ラーシュ・ヘイケンステーン
 ノーベル財団でスウェーデン・アカデミー批判の先頭に立っていたのは2011年から2020年まで理事長だったラーシュ・ヘイケンステーン氏〔1950-〕。ラジオや新聞のインタビューでもスウェーデン・アカデミー批判をおこなっていた。
 彼は2020年12月に理事長職を退任したが、そののインタビューでこう語っている。
・2018年5月、スウェーデン・アカデミーは内部崩壊しかけていた。何人かの会員には自発的にアカデミーを辞めてほしかった。
・財団の要求で新しいノーベル賞選考委員会制度が発足したが、うまくいかなかった。ペーテル・ハントケを受賞者に選んだのはマズかった。このモデルが機能しなかったのか、それとも人選が悪かったのかはわからないが……。
・スウェーデン・アカデミー会員の任期も設けるべきだ。他の選考機関ではそうなっている。
・だが会員の半数が入れ替わり、内部規約もより厳しいものになった。ローテーション制度も取り入れた。スウェーデン・アカデミーは信頼を回復する方向に進んでいると思う。

と、苦言を呈しつつも希望を述べている。

(文責:羽根由)

 








 


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