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やさしいスウェーデン語の本
スウェーデン語翻訳者のヘレンハルメ美穂です。
突然ですが、外国語を勉強したことのあるみなさん、学習中にはその言語でどんな本を読んでいましたか? 大人向けのふつうの本をいきなり読むのは難しいですから、はじめは絵本とか児童書とかを手に取ることが多いのではないでしょうか。でも、児童書は児童書で独特の表現があって難しいこともありますし、なにより子ども向けのものばかり読んでいるとつまらなかったりもしますよね。そんな中で私は、スウェーデン語初心者だったころ、やさしいスウェーデン語で書かれた大人向けの本にお世話になりました。
スウェーデンはこのジャンルがかなり充実しているのです。近年はとくに、人々の読書離れとそれに伴う(あるいは先立つ?)読解力の低下が問題視されています。そんな中で、やさしいスウェーデン語の本は、読書に慣れていない人、読書へのモチベーションが低い人をも、本の世界へいざなう道具になるのではないかとして注目を集めています。
日本にもやさしく分かりやすい日本語で書かれた本というのがあって、それがLLブックと呼ばれていることをご存じの方もいらっしゃると思いますが、じつはこのLLブックというのはスウェーデン語の「lättläst(やさしく読める)」が語源です。今回はスウェーデンのLLブックの世界を少しご紹介したいと思います。
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LLブックの歴史
スウェーデンのLLブックは1960年代、民主主義社会においては文章を読んで情報を取得する権利をすべての人が保障されるべきである、という考えのもとに生まれました。当時想定されていた読者は、知的障害があったり先天的に耳が聞こえなかったりで、通常の文章を読んで理解することが難しい人々です。コンセプト自体はそれより前、イギリスやカナダなど英語圏の国々にあったようですが、スウェーデンはこれを導入し発展させるため、学校監督庁の中にLL作業部会をつくり、出版社に助成を与えるという形でLLブックの出版を進めました。
当初は「有名な古典や人気のある作品をだれでも読めるように」ということで、既存の作品をやさしいスウェーデン語に書き直す形が主流でした。最初に出版されたLLブックはペール・アンデシュ・フォーゲルストレム(Per Anders Fogelström)の『モニカのいた夏(Sommaren med Monika)』(イングマール・ベルイマン監督の映画『不良少女モニカ』の原作です)。1980年代に入ると、最初からやさしいスウェーデン語で書かれたLLオリジナル作品も出版されるようになります。
LL作業部会はその後いろいろと変遷を経て、現在はアクセシブル・メディア庁という国の機関に編入されています。

LLブックの現状
上に書いたとおり、はじめに想定されていた読者は知的障害や先天性難聴などで通常の読書が難しい人々だったのですが、いざ実際にLLブックを出してみると、やさしく分かりやすいスウェーデン語で書かれた本を必要としている人、そういう本があると助かるかもしれない人は、ほかにもたくさんいることが分かってきました。たとえば、
外国語としてスウェーデン語を学んでいる人
認知症をわずらっている人
燃え尽き症候群やADHDなどの要因で、ふつうの本に集中できない人。読書スタミナをゆっくり鍛えるのに役立つのではないかと期待されています。
自閉スペクトラム症などで物語を追うのが苦手な人。心情描写をストレートにしたり、時系列をまっすぐにしたりすると、助けになるのではないかといわれています。
読字障害(ディスレクシア)のある人。とはいえこれは議論の分かれるところで、「オーディオブックで事足りるからLLブックなど読まない!」と主張している当事者の方々もいます。LLブックは歴史的に知的障害と結びつけられてきたので、「そういう烙印をおされたくない」という感情が残念ながら生まれるのかもしれません。
上にも書いたとおり、読書の経験があまりない人、読書へのモチベーションが低い人。ちゃんと読んで理解できる、そうして一冊読み終えた、という成功体験を重ねることが、プラスに働くのではないかというわけですね。
とくに外国語としてスウェーデン語を学ぶ人々のLLブック需要は、2015年ごろのいわゆる欧州難民危機によって激増しました。また、子ども・若者の読解力低下が近年甚だしいということで社会が危機感をつのらせていて、その受け皿・助け舟としてLLブックが注目を集めています。

LLブックの出版はずっと、アクセシブル・メディア庁の一部であるLL-förlagetという出版社が担ってきたのですが、上記のような状況を受けて、LLブックを出す商業出版社も出てきました。いまはLL-förlaget以外に少なくとも3〜4社あって、大人向けまたは児童向けに、既存の作品をやさしいスウェーデン語に書き直した本、LLオリジナル作品、ノンフィクションや実用書など、いろいろな本を出しています。

問題点
そもそもLLブックはほんとうにLL(やさしく読める)なのか?
LLブックは実際の経験をもとに発展してきた分野で、学術的な研究や調査はあまり進んでいません。どうすればやさしく分かりやすいスウェーデン語になるのかという根本的な点についても、科学的になにか証明されたわけではなく、利用者の声を聞き反応を見て推測して試行錯誤を繰り返した結果なのです。読書という活動はいろいろな要因が複雑に絡みあって実現するものです。LLブックの対象読者は多岐にわたるので、なにが簡単でなにが難しいかはどういう読者かにもよるだろうと推測されますが、そのあたりもまだはっきりとはわかっていません。体系的な研究が待たれるところです。
レベル分け
現在、LLブックはたいていレベル分けされていて、とても簡単なもの(絵がたくさん入っていて1ページ当たり1〜2文とか)から、通常の書籍にかなり近づくものまでいろいろあります。ただ、このレベル分けの方法が出版社によって違うのです。3段階に分けている出版社もあれば、6段階に分けている出版社もあったり……。そのため読者はもちろん、LLブックを紹介する機関(図書館や学校など)にも混乱が生まれています。統一しようという動きもあることにはありますが、上記のとおり、そもそもどういうスウェーデン語がやさしく分かりやすいのかがはっきりしていないので、いろいろな方針が混在していて、なかなか複雑そうです。
ほんとうに読書離れ対策になるのか?
LLブックを出している出版社はみんな、とくに若者の読書離れをとても意識していて、とりわけ読書をしないといわれる中学生・高校生の男の子たちになんとか本を読んでもらおうと、同年代の男の子を主人公にした作品をLLオリジナルでたくさん出したりして頑張っています。確かに、読解力が低くて本を読むのが苦手だった子が、LLブックで成功体験を重ねて読書をするようになるというケースはきっとあるでしょう。ですが、そもそも本を読む気のない子にLLブックは役立つのか? SNSやゲーム、動画配信サービスに勝つポテンシャルがあるのか? そのあたりの実態も調査する必要がありそうです。
このように、まだまだ改善と発展の余地はありつつ、現在のスウェーデンのLLブック界はなかなかアツく興味深いのです。2020年にはLLブックを対象とした文学賞というのも創設されたりして、関心の高さがうかがえます。
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『満月の下で』は、夜中のカフェにふしぎな女性が現れてクッキーを焼きはじめ、悲しみを抱えた人々が見えない力に誘われてカフェにやってきて、クッキーを食べると……という物語。『湖畔の少女』は、幼い娘を事故で失い失意の底にいる女性が、湖のほとりでふしぎな少女に出会う話。次に会うときまでに◯◯を探してきてと少女に頼まれて、言われたとおりにするのを何度か繰り返しているうちに、女性の人生が少しずつ変化していきます。
以上、スウェーデンのLLブック事情を簡単にですがお伝えしました。文章を読むという形で情報を得ることが普通であり、しかもその情報量が増える一方の現代社会では、読むことが苦手だと社会参加も難しくなります。そんな中で、だれにでも読める本を提供することは、すべての人々に情報だけでなく、言葉そのもの、ひいては社会に働きかけて自らの状況を変えていく声を提供することでもあると思うのです。