愛すべき余白と、日々の彫刻。
雨の日はいつも、執筆欲が自然と湧いてくるから不思議だ。
Lyonで買ったお気に入りのアロマキャンドルを焚き、ビル・エヴァンスを聴きつつ、傍らに雨音を感じながら筆をとっている。
さて、「DIC川村記念美術館が休館へ」というニュースが話題になっている。
残念ながら、わたしは未だこの美術館へ訪れたことはないのだが、いろんな人の投稿をXで見ている限り、とても素敵な敷地とコレクションを持っているらしい。
そんな美術館が、資産効率化の観念から2025年1月下旬に休館してしまうようだ。
そして、このニュースが発表された直後、DICの株価は上昇している。
詳しくは知らないが、これは経営的に苦渋の策であり、そして数字的には良い判断だったのだろう。
しかし、私はこのニュースを見て、とても悲しくなった。
これはいち企業の問題ではなく、日本国民みなの行動の積み重ねの結果だから。
実利を感じずらいコンテンツを選ぶ人が減った結果、こうなってしまったと思うからだ。
芸術はたしかに即効利益を生むものではないが、その重要さはパンデミック禍において実感したのではないのだろうか。
多くの人が働くことを強制的に停止されたとき、わたしたちの日常を潤してくれ不安を緩和してくれるものは音楽や映像、書籍、食などのクリエイティブなコンテンツだったはずだ。
少し前に「アート思考」関連の書籍が流行ったが、結局あれもビジネス・自己啓発の類として消費されて終わってしまったのだろうか。
目先の利益を追求する、効率を重視することも大事だが、それ以上に「(金銭的な)価値がないように感じられるけれど、なんか良いもの」のほうが遥かに大切ではないだろうか。
日常の中にある美しさ、何気ないものを美しいと捉えらえる心は、一朝一夕で育つものではない。
誰かが美しいと感じた瞬間、心が動いた瞬間が何らかの形でアウトプットされ、後世に残っている。それが美術品であり、クリエイティブなコンテンツの類である。
皆が美術館に行く必要はない。美の痕跡は本来、わたしたちの日常に溢れているものだと思う。
しかし昨今、そうした美を重んじる心が、どんどん消滅していこうとしているように感じてしまうのだ。
無駄が削ぎ落とされ、完璧なまでの効率化が求められている現代。
低コストで完璧に作られたそれらは、スタグフレーションに喘ぐわたしたち国民の強い味方だ。それは紛れもない事実である。
実際、フランスに住んではじめて、日本がいかに清潔で、便利で、完璧主義であるかを痛感じた。何より、すべてが安い。
同時に、本来そこにあるべき人間味というか、"あたたかみ"みたいなものが、どんどん薄れていってしまっているようにも感じた。
この人間味やあたたかみと表現しているものをつくるのは、「余白」だと思う。
そしてこの「余白」は、きっと、無駄なものからしか生まれない。
このような社会になってしまっているのは、わたしたち消費者側の問題だ、と思う。
わたしが強く影響を受けている思想のひとつに、ヨーゼフ・ボイスの『社会彫刻』がある。
簡単にいうと、「人類はみな、芸術家である」という概念だ。
実際に何かものづくりをしている所謂アーティスト・作家と呼ばれる人たちだけでなく、何かを消費して生活しているわたしたちもまた、芸術家なのである。
それは、何かを手に入れるときに「選ぶ」という行為が生まれているから。
わたしが「選んだ」もの・あなたが「選んだ」ものが、結果的に投票という形で世の中に必要とされているものになっていく。
つまり、だ。「安いから」「流行りだから、とりあえず」で購買し消費を続けた結果、本来選びたかった"良いもの"は社会に必要ないと判断され、消えていってしまうのである。
あなたは、本当に良いと思うもの、欲しいと思うものを選択しているだろうか。
メディアやSNSの情報によって、選択する権利(あるいは義務)を放棄してしまっていないだろうか。
選択基準は人それぞれなので個人の思うようにすれば良いのだが、それを意識するのと無意識でおこなってしまっているのとでは、雲泥の差があると思っている。
なぜ、この話を書こうと思ったのか。
冒頭のニュースと併せて、現在、東京・神宮前のGYRE GALLERYにて件のヨーゼフ・ボイスの展示が行われているからにほかならない。
想像を絶する遅さの台風10号の影響もあり、まだ私自身も訪れられていないのだが、必ず行きたい展示のひとつだからだ。
「なぜ今、ヨーゼフ・ボイスなのか?」
この答えを自分なりに模索してみたいと思っている。
会期は9月24日(火)までで入場無料なので、興味を持った方はぜひ行ってみてほしい。
そして、社会を彫刻(構成)する芸術家のひとりとして、毎日の数えきれない投票の数々を意識的におこなっていこう。