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風の時代を生きるには芹澤君の生き方を見本にするといいんじゃないかな、と思った話

映画「すずめの戸締り」

ちょっと前に「すずめの戸締り」を鑑賞しまして。

「ちゃんとした考察」は
動画もテキストもたーくさんあるので是非そちらをご参照頂くということで
ワタクシが語るのは妄想一本勝負。

あらすじや、正確なセリフや場面の引用なんかはもうかっ飛ばして
「一緒に映画観に行った友達と話してるテイ」でただ妄想を書き連ねますのでご了承下さいませ。割り切り大事。

で。
芹澤君ですよ。芹澤君。

友人を捨て置けず結果がっつり巻き込まれながら決して闇落ちしない
ナイス兄さん。
この世に惚れないヲタ女がいようか?いやいない(反語)
そもそも声が神木君ですよ?陰の主役でしょうよ?
と思いながら観ていたら
やっぱり「本当に主役かもしれない」と思った話。

「人間」の主役

すずめと草太は、アメノウズメと宗像三女神の名前を持つ通り
いわば神サイド。
「人間が要石に~」とか「人間が~」とか言っていたけれど、
時は超えるし、この世ならざるモノにアクセスできてるし、
挙句にそいつら封じるし
それは「こっち側」の人間ではなく「あっち側」の属性だから
可能なワケで。
で、
ダイジンたちは問答無用で神サイド。
さらには
環さんも、すずめと親族だし
 環=ウロボロスの環=循環する命と時間 なので神サイドにカウント。
ちなみにミミズも「居る」のではなく「存在」だから神サイド。
(居ると在るのハナシはまた後日)

一方
旅の途中で出会う人々は旅人(神)が「通り過ぎる」地の人々なので
人間サイドの「脇役」たち。
となると
人間サイドの「主役」は
残る芹澤君なのではないか、と。
声が神木君であることが何より主役の証(偏見)

福島に向かう芹澤君の車に乗っていたのは
芹澤君以外はいわば全員神サイド。
つまり「神々の問題」に「巻き込まれ」て「被害」を被っていたのが
人間芹澤君なワケだ。

なんとなく共感できない理由

相変わらず「新開監督作品!」ってことで映画は大ヒットしており
熱烈なリピーターさんのTwitter報告を結構見かける一方で
「共感できない」とか「すずめと草太の関係描写が薄い」とかいう感想を時々見かけたのだけれど。

なるほどこのすずめと草太の「主役2人」を神々側、
物語自体を
「神々が人間界で神々の問題を解決する冒険譚にエンタメふりかけた話」
と捉えれば
神は人間とは違う理(ことわり)のもとに存在するのだから
共感しづらい人がいるのも当然ではないかと。

「感動」とは「自分の心が感じて動く」ことなので
基本的に自分(人間)が理解できる部分にしか感動しない。

なので

降りかけられたエンタメ部分に感動はするけれど、
いまいち「感動でお腹いっぱい感」が薄いってのは
「エンタメふりかけ」かけて観客にすり寄っていっても
ベースは人間と「違うことわり」の神々だから
どうもぴったり共感できない人が出てきてしまう。

いや当然
感動でお腹いっぱい胸いっぱいになった方もいらっしゃるけれども
その方は割と「あっち側の属性」の魂をお持ちなのではないか、と。

その中で
左大臣にアテられて環さんがブラック部分を吐露する人気のシーンは
とても「人間くさい」行動だったので
観客という人間たちは磁石に砂鉄が吸い寄せられるように
そのシーンに心がくっついた人が多かったのでは、と。

でも実は、環さんは「環」なので「あっち」と「こっち」をぐるぐる行ったり来たりしているから人間ぽい所はとことん人間くさいけどやっぱり本質的な属性は「あっち」側なんだとは思う。

閑話休題。

人間芹澤の行動

というワケで
神々の騒動をまさに「観ているだけ」の観客たちが真に共感するキーマンは「人間芹澤」ということになる。

芹澤君。
神々の騒動に巻き込まれ、いろいろ被害を被るのだけれど
芹澤君は「神々」を恨むワケでなく(愚痴るけどw)
決して相手を「問い詰めよう」とか「言い含めよう」とか「止めよう」とか「排除しよう」とか逆に「自分も参加しよう」とか
直接的に相手をどうこうしようとはしていなくて

話を聞いたり歌で機嫌をとってみたりしながら
神々が目的を果たすまでずっと伴走する。

神々のせいで一晩中走り回っても車が壊れても
「お前のせいだ」と相手のせいにして賠償や処罰を求めたり恨みつらみを言ったりするのではなく
困った困ったという顔をしながら
起こった出来事を体験していく。

これって
風の時代の人間と神々の付き合い方の「正解」なんじゃないだろうか。
新開監督がそこまで意図したかどうかは分からないけれど。

これからの時代、多分もっと天変地異も起こるだろうし
時代が変わるのにあわせて様々な
「今までの価値観ではかれないような出来事」
「今までの価値観が崩壊して自分のよりどころを見失うような出来事」に
直面することがもっともっとあると思うのだけれども。

芹澤君のように

その騒動(天変地異)や神々(価値観の異なる存在)に対しては
「そういう人なんだ」「そういうことがあるんだ」と
ただ体験して
それが正だとか誤りだとか、善だとか悪だとか、
良い悪いなどのジャッジをしない。

そして

その騒動を体験したことによって考えるのは
「今後自分がどう進むか」についてだけ。

心のベクトルが
神々(自分がどうにもできない自分ではない存在)を動かして自分の安寧を要求する方へではなく
自分(自分がどうにかできるもの)を動かす方に向かっている。

そうして、笑って、歌って、生きる。

この芹澤君の行動が
これからの時代のワシらの生き方の参考になるんじゃないかと。

そんな風に思った次第。

神々の事情に巻き込まれた理由

おまけの妄想

「人間芹澤」が「神々の騒動」に巻き込まれたのは何故かと考えてみるに「神(草太)にお金を借りた」からではないかと。
「仮りをつくる」と「契約(接続)」してしまう仕組みなのかもしれない。

後ろ戸を封じるときに「お返し申す」と言うということは
土地や自然は神から「かりたもの」だから「返す」と言う。

芹澤君も「お金を借りた」ので草太君との「縁(接続)」が生きていた。

ただ
一連の騒動に巻き込まれたから
彼のこれからの生きる道を考えるきっかけにもなったワケで
大変な目にはあったものの
それは彼の人生にとっては大事なことだった。

神々から「借り」ることで接続が出来て神の「ことわり」が発動し
神々の法則にのっとって
災いが起きもすれば、幸が訪れたりもする。

芹澤君の「神々のもてなし」が正しかったことは
あのラストシーンに繋がっていったワケだし
やはり神々を相手にする時には
「ありのままを受け止め」「楽観的に」「楽しむ」
ことが重要なのかな、と。

神々から借りた土地も
そこで人々が「楽しんでいれば」後ろ戸は開かない。

自分が楽しむこと

「自分が楽しむ」から連想した
もいっちょオマケの妄想

そもそも
引きこもった天照大神を外に出すために
他の神々が何をしたかというと
飲めや歌えや「自分たちが楽しくすごした」んだよね。
「天照大神を」楽しませようとしたワケではなく。

アメノウズメの裸踊りも
「天照大神に」見せるためではなく
「周囲の神々が」楽しんで大うけした結果、岩戸が開いた。

つまり
物事を良い方へ向けたいときには
「物事を」向けるのではなく
「自分たちが」良い方を向くと「物事が」ついてくるのが
神々の法則なのかもしれない。

それが、風の時代の法則なのかもしれない。

なーんてのが
「すずめの戸締り」を観て思いついた妄想だったとさ。
長げぇよ。

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