出会いはいつも八月
八月に出会った人と九月の夕立の中を避けるように歩いた赤土埃の公園。
そんな夏の恋をふと思い出す一冊の予感を読み進めているうちに感じながらも、やっぱりマルケスはマルケス。描写の端的な美しさ!誰もが羨むだろう。
「百年の孤独」が文庫化された。あれを当時出たばかりの日本で私も若かりし威勢で飛びついてみたものの挫折繰り返し、肩を並べて面白がったあの日も人生の黄昏に暮れた。
「百年の孤独」という題名があまりにも有名になって陳腐化したと書かれていた、その通りだろうと奇妙な焼酎か何かのボトルに吹いた娘時代の事を思い出した。スペインの作家は百とか百年と書くだけで、打つだけで、百という字を書きたくなくなるようだし。ともあれ、私は認知症になった作家を持つ家族の気持ちを察した。比較にもならない、似てもいない。ただ察することはできる。辛かったという文字に目が止まった。そうだろう。辛かった、私も。
作家にとって記憶を失うということは、道具も持たずにそこにいる左官屋や植木職人と似ているかもしれない。私はミシンの前に、台所の前に不在になった母を思う。と同時に、使い手を失ったミシンを、キッチンを思う。家族を思う。
でも、家族は解散していい。解き放たれていいときがくる。
ここ最近、安寧を取り戻してきている私は、読書の時間を設けるようにしている。そうでもしないと、読み進められない。積読ばかりが増えてしまった。
思えば、子供の頃は図書館や図書室で本を開いたものだ。図書係なんかもやった。上の扉の写真は小6くらいの通信簿の所見。やだったろうねこんな生徒。
でも逃げ場は図書室か図書館だった気がする。
カナダでも図書館にはよくお世話になった。バンクーバーの図書館は本当に素晴らしかった。あの場所でいろんな本を手にできたこと、そして体が辛い時に、ほっと休ませてもらえたことも助かった。
子供の頃によく行った児童図書館がたまらなく好きだった。
係の大人からの目線が考慮された、いい建築物だった。
あれを壊してしまったかと思うと残念だと思った。同じのがまた作られて欲しかった。目の前には小さいながらも庭があって、隅っこには電車図書館があった。
室内には寝そべって読めるコーナーがあって、私はそこで根本進のくりちゃんやピーターラビットやエルマーのぼうけん、マンロー・リーフに出会うのだ。
私のホニョ画のセンスはそこで培われた。
古書店は父に連れられてよく立ち寄った。
そのせいか、古書店も好きで何となくすすすーっと入ってしまう。
沖縄には古書店が多く、見つけると何となくすすすーっとのら猫が入ってゆく感じで入って居座ってしまう、それが「ちはや書房」だった。1人で寂しかった旅先で唯一の話し相手になってくれた店主、のら猫に優しくするように、私のたあいないとりとめない喋りをよく聞いてくれた。南の島の古書店でステッカーまで売ってもらっている。嬉しいご縁だ。しかも近くにはあの天妃前饅頭が売っている。先日は土砂降りだったので、きてくれたお客さんに差し上げた。
ステッカーを150円で売って饅頭をあげるってどうも頭の悪い子の勘定で笑う人もいるだろう。それでいい。雨の日に泉崎まで上がってきてくれたのだ。
私にはひばり珈琲が出張してくださった。前から飲んでみたかったので嬉しかった。店主が古書の文庫を一冊買ってくれて、とても嬉しかった。
きてくださった客の中で、ラジオ番組を持つ人がいたようで、番組でステッカーの事を宣伝くださっていた。雨の中来てくださった方々本当にありがたい。
ステッカーは150円で売って、売り上げは店にちょっと、私の分は原価を思えば何にもならないが、売り上げは私の医療用タイツ代にする。こないだ39800円の請求書が来たので、ヒィイとなっている。頑張って売らねば。店頭はバラ売り可。
通販もやっているが通販はセット価格である。4枚セット送料込みで700円。
下記にメールしてオーダーするシステム。shop@chihayabooks.com
私はて売りもしているので、持っていればその場で売る。
欲しかったら、声かけてほしい。持ってない場合はごめん。
本の話に戻ル。
古書店で探す本が最近多い。
復刊を望むものもある。金井喜久子著「愛のトゥバラマー」これは名著。
ふと満島ひかりの声が浮かんだが、東盛あいかさんもいい。二階堂ふみもいい。
誰か大事に大きな作品にしてくれやしないかと願っている。
その前に私がラジオ朗読でやろうと思った。
古書から気づきはたくさんある、古きから新しきをしる。
先日みた映画もそんな話だった、「ホールドオーバーズ」ジアマッティそして彼を取り巻くキャスト配置が最高。ジアマッティに狩俣の方言辞典や南島歌謡を上梓した新里先生を重ねた。
新里先生の書斎にはずらりと読みたい本が並んでいる。
おそらく先生は全てを読んでおられる。頭が下がる言語学者だ。
先生の書斎の猫になりたい。先生の飼い猫ウシさんは私に懐いている。
先日も先生から台湾の原住民の言語と沖縄の離島の言語のことについての講釈があった。面白かったので先生との対話を10代くらいにでも読める優しい本にまとめたいくらいだ。自分の生まれ育った土地の言葉を知ること、その言葉のルーツや類似性など、探れば面白いはずだ。
南島歌謡をまとめた外間守善先生と新里先生の仕事も実に貴重なので、これも何かに残したい。書簡のやり取りだけでも実に稀有であり、1960年代に言語学者がどうやって神歌や離島の言葉をまとめたか。その忍耐、ご苦労、そして努力がそこによみ取レル。
外間守善先生の本を見に所沢まで行ったが、高い入館料を払わねばならなかった。そして、払って入館したところで、外間守善先生の本が果たして借りられるのか、手にとって読むことができるのかすら、わからなかった。断念。
程なく、外間守善先生のお宅に先生の好物であった天妃前饅頭をお届けに上がり生まれて初めて仏前にお供えさせていただいた。
お礼にと一冊の本をいただいた。所沢まで行ったけれど読めなかった目当ての一冊だったので本当に嬉しかった。でもそれもまだ全部は読めていない。
思えば、読めていない本だらけだ。
あんなに整理してもう私の本棚には数冊しか本はないというのに。
生きているうちにどれだけ読めるだろう。
でも、気長に読めばいい、とか言って、また10代くらいの時に読んだマルケスを引っ張り出してくる懲りない私であった。