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家族とか、母とか、心配とか愛とか。

母になったことのない私には、母であることの大変さは想像するしかないので、どうしても偏った見方になってしまうのだけど。

それはそれとして、母という存在は、人によって「子を心配すること」を、いくつになっても自分の存在意義としているようなところもあるのかもしれないな、と。

母を見ていて、どうしても理解しがたい部分を割り切るために、そんなふうに理解してみようとしている。

いつも何かしら食べさせなければならないとか、子を空腹にさせてはならないとか。

子どもの頃はまだしも、いいオトナになった今でも、母は隙あらば何かしら食べさせようとする癖がある。
消化能力の衰えた身体には、苦痛でしかないのだけど、それをいくら伝えても理解できないみたいだ。

私は心配性の母のもとで育った。
私が本当にやってみたかったことは、おおむね母の気に入らないような事が多かった。

オトナになった今も、油断すると境界線を越えてこようとする母と、ほどよい距離を保とうとするのはなかなか至難の業だ。

家族でも他人でも、基本的に笑顔でいられる範囲でつきあいたいと、私は願っている。

境界線がわからずに、苦しい思いをした時間が長かったから。

大学に進学して寮生活をはじめたころ、飲みすぎ、食べすぎた飲み会のあと、食べすぎたものは体から出してしまえばいいんだ、と知った。

食べたいけど、太りたくなかった。10代の私。
そのころの私は自分の行動に責任をとれなかった。
食べたら太る、という当たり前のことを、食べるという行為だけすくいとって、太る、を受け入れなかった。

その日から摂食障害になるのに時間はかからなかった。
それは大学時代から20代後半まで続いた。

仕事がきつくて体が持たないと感じはじめて、やっとその嗜癖から離れることができた。

誰かが作ったものを食べるって、愛を受け入れるってことなんじゃない?
多すぎたら受け取って、こっそり捨てればいいのよ。
と、ある人が言った。

境界線とか愛とかって、実際のところ、なんなんだろう?
と思った。

私は愛を受け入れるふりをして、本当は拒絶していた。
それは母に対してだけでなく、もしかすると誰に対しても。
それが私にとっての摂食障害の歴史でもあり、境界線の問題でもあったように思う。

食べる、とかって行為は、何かの代償になることが多い。
わたしが生まれ育った家庭は、いつも食べ物にあふれていた。
でもお腹いっぱいに食べても、何かが満たされていなかったのだと思う。

わたしを含めて、みんな何か「ここにないもの」を求めていた。
あの時代は、みんなそんなものだったのだろうか?

高度成長期の痛み。
我慢して頑張って、今ここにないもののために身を粉にして。

もう、そういうの、いいよね。
本当の愛とともに、くつろいで生きよう。
ただ、「愛」って人によって違うんだ、ってことだけ忘れないでいられたらいいのかな。

家族とのあいだにあった胸の痛みは、閉じた心の結果だった。
しっかりと境界線を引きながら、心を開く練習をしてみることにした。
遅ればせながら。

久しぶりに母の家でゆっくり家族で鍋をつついたりしながら、いろんなことを思った。
年末年始の時間。
今年は、みんなして腫れ物にさわるようにずっと放置してきた、実家の空き家を処分することに決めた。

父と母が願いを込めて作り、守ったはずの家も、今では厄介者扱いになってしまった。
終わった夢を清算するときが来た。
それはきっと新しい未来へ向けて。
家族の歴史が、光に還るように。

今日のオンガク
「夜空ノムコウ」スガシカオ
https://youtu.be/0nnWecVYw7A



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