母のdemonを笑い飛ばそう~言語化とかいろいろ。
半世紀以上生きてやっと気づいたのは「母はコミュニケーションについて非凡な傾向がある」ということ。
母、齢87。
いたって元気。私が何かいうと、基本的に「否定」から入る。
私はそのことにいつもイライラしていて、今思えば私の自己否定癖は母の「否定から入る態度」を自己内在化した結果だと思う。
ある日のこと。
母の、ど演歌カラオケに付き合い、「声がよく出てるね」とか褒めてみたりした挙句。せっかくなら私も歌おうと、最近気に入ってる「demons」(imagine dragons)を熱唱した私に、母の一言がスマッシュヒットした。
「暗い曲!」
え?なんつった?今?
さっきまであなた、お涙頂戴のくっらーい演歌、散々歌ってたじゃん?
そんなあなたが、このノリノリの洋楽に、そんな批判をするワケ?
結構真剣に腹が立って、「え?あなたが歌ってた歌も十分暗いよ?」と思わず反射的に反撃に出た私。
好きなものを批判されるって、結構マジで腹が立つんだなー、と思った。
で、母って結構、誰に対してもそういう傾向があったなぁ、というのをふと思い出した。
たとえばある日電車に乗ってた時の事。
周りにめっちゃ聞こえるやん!という声の大きさで
「みんな携帯ばっかり見てて可笑しい」とのたまった。
「ちょっと、聞こえるで」と小さい声で言ったある日の出来事。
「あんた、子どもなん?」
みたいな発言を、びっくりするタイミングでする、母の言動を思い出してみると、私が散々傷ついてきた母の批判的言動は、「私の問題」ではなく「母の問題」だったんだと気づいた。
彼女は「非凡なコミュニケーションの傾向」を持っていた。
そのことに気づくのに半世紀もかかってしまった。
彼女の中の「demon=悪魔(に見えた部分)」も、彼女の一つの「偏り」ととらえることができたなら、笑い飛ばせるし、笑い飛ばすしかないんだと思った。
最近、「言語化」について考えるきっかけがあって。
幼少期の両親や周りの人たちとの関わりの中で、人は言語化を学ぶ、ということを聞いて、なるほどと思った。
「あなたは今どんな気持ち?」
「このことについてどう思うの?」
みたいな問いかけが、安心安全な環境の中でされる状況があれば、人は安心して自分の思いを言語化できる。
気持ち や 思い
に間違いはない。
「その人がそう感じる」というのは変わらない事実だから。
だからもちろん「正解」もない。
正しさで測れるものではない。
人にどう言われようと、笑い飛ばすことができればいい。
本当に言葉にしたいことを、誰にどう思われようと言葉にすればいい。
そのことが、本当につながりたい人と深くつながる架け橋になる。
誰とでもうまくやろうとしなくていい。
多くの人に認められなくていい。
そんな言葉をある人から聞いたとき、とても深く納得した。
世界は大きなジグソーパズルだと思う。
せいぜい上下左右のピースの人と深くつながることができたら、私たちは世界の一部としてうまく機能できるのだ。きっと。
Imagine Dragons - Demons (Official Music Video) (youtube.com)
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