![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/159743753/rectangle_large_type_2_d2f548e3c64cbd8c5e8ab707bb1c629b.jpg?width=1200)
「楽器」という愛するもの
初めて「楽器を弾いて」お金をもらった。純粋な「演奏に対する報酬」ではないけれど、嬉しかった。たった二千円。最初の二千円。とても小さいけれど、とても大きな一歩。これを続けていれば、きっと何かがある。今まで積み上げてきたものが少しだけ報われて嬉しかった。
コントラバスを始めて、相棒が相棒になってくれてから五年が経った。一見綺麗だけれど、その身体には確かに五年の歳月の跡が無数に刻み込まれている。大きなものから小さなものまで。ネックを折ったり、二年間放置して表板がバキバキに割れたり、雑に置いた衝撃で側部が割れたり。ステイホーム期間中、エンドピンのゴムが無くなっていることに気づかず実家の部屋の床を穴だらけにしてしまったり。ジストニアを放置した結果おれの左半身は破壊の限りを尽くされ、左手の小指に至っては自由に動かすこともできなくなってしまった。本体も環境も身体も傷だらけ。あ、おれが咀嚼するとき、意識しないと殆ど右側で噛みしめているのもこれが原因か。
その傷は全部おれがつけた傷。気づかないうちについたものも、何かしらのアクシデントでついた傷も、一つ残らず。誰かにとってはただの傷。おれにとっては一緒に過ごした思い出。それが傷として刻み込まれている。おれが死ぬまでにあとどれくらい増えるのだろう。
工房で修理してもらって待っている時間に、そこにある楽器を弾かせてもらうことが度々ある。「かっこいい~、いくらですか?」「それ?五百万。」「ひい~!」なんて会話をする。数百万円以上の高級な楽器からしか摂取できない栄養素がある。音色も見た目も値段通り、もしかしたらお値段以上。ただ、修理から帰ってきたこの子に張られた弦を弾くと、彼らに抱いていたはずのときめきも一瞬で消え去る。
おれはコントラバスを長時間弾くことができない。五分程度が限界。左手が激痛を伴いながらこわばって次第に動かなくなる。どんなセッティングのどんな楽器でも同じ。高級なものでも合板のものでも、きちんと手入れされているものでも、朽ちかけているものでも。楽器がなんであれ、もうおれの身体は演奏に耐えられないんだろう。
ただ、不思議なことにおれのコントラバスでは問題が起きない。冷えていたりすると瞬間的に痛むこともあるが、それも少しすれば無くなる。どうしてなのかはわからない。セッティングを極端に緩くしているわけではない。一般的なジャズ・ポップス向けのセッティングのはず。他と極端に違う何かがあるとは思えない。他の楽器にはなくておれの楽器にあるもの。思い出……?
某有名私立大学の推薦をちらつかせる教師を振り切って高校を辞めた。自分の力で未来を切り開くのだ、と。しかし、本当は自分の決心を信じ切ることができなかった。しかし辞めた手前誰にも悩みを打ち明けることができなかった。そんな曖昧な心を持っていた頃、その楽器と出会った。無駄な装飾がない、どこにでもあるような素朴な外見。制作者の名前すら刻まれていない楽器。木の匂いがした。
エレクトリックベースを修理に出していたこともあり、数ヶ月は頑張って練習した。エレクトリックの細い弦しか弾いてこなかった指には痛々しい水ぶくれができた。勲章だった。しかし、そんな数ヶ月で弾きこなせるようになるほど甘くはなかった。エレクトリックが手元に戻ってくると、次第にコントラバスと向き合う時間は減った。流行病によってずっと家にいたが、主はエレクトリック。あくまでサブでしかなかった。次第にコントラバスを弾くと左手が痛むようになっていた。大学に入ってもそれは変わらなかった。豊かな音を響かせることはできなかった。自分にはできない、と諦めていた。出会った頃の曖昧な心は何も変わっていなかった。次第に持病を悪化させ大学を辞めた。コントラバスも、音楽もできなかった。
まずはスマートフォンを手放した。誰かと連絡を取る必要がなくなったから。好きだったはずの化粧道具を全て捨てた。好きだった人に顔を見せることもなくなったから。ウォークマンを手放した。もう音楽を聴くことはないから。楽器を全て手放した。もう必要なくなったから。
コントラバスも処分しようと売りに出そうとした。ただ、お店に持って行く元気すらなかったし、ネックが折れているから二束三文にしかならないだろう、となんとなく先送りになっていた。その間、部屋の隅でずっと彼を見ていた。自分を構成していたものを全て否定し、次第にベッドの上で動かなくなっていく彼を、ただ見守っていた。大きな嵐が起こっていた。彼はベッドの上で毛布に包まって縮こまっていた。嵐が過ぎ去るのを待った。
嵐が過ぎた。空は晴れていた。春の朝、久しぶりにベッドから起きた。不意に、門番と目が合った。門番は朽ちていた。傷だらけだった。表板はひび割れ、横板は剥がれ、エンドピンは膠着して動かなくなっていた。なんだか申し訳なくなり、病院に連れて行った。費用はかなりかさむものの、二週間程度で退院できた。家に帰ってきた久しぶりにその身体に触れた。初めて会った時と同じ感触だった。元気なときは音を鳴らした。他にやることもなかった。全て手放してしまったから。いつからか音を響かせることができるようになっていた。左手も、コントラバスを弾いているときだけは健康に戻ってくれた。気がつけば、コントラバスを弾くようになっていた。
おれは特定の宗教を信じてはいないけれど「八百万の神」や「天網恢恢」、「アミニズム」のような思想を信じている。スピリチュアルな話だけれど、きっと初めて出会ったときはまだ魂が目覚めていなかったんだと思う。修理に出して綺麗にしてあげて、元気がある時にちまちま触れているうちにいつからか目覚めたんだろう。そういうことにする。
天気予報によっては学校に泊まらせないとならない日もある。置いておく部屋に置いて鍵を閉める瞬間、とても不安そうに、寂しそうにこっちを見てくる。だから極力持ち運んでいる。タイミングによっては授業も一緒に受ける。駅前のワッフルも一緒に買いに行く。一人だけど一人じゃない。コントラバスが一緒にいてくれるだけでちょっと自信が湧く。一人ではできないことができるようになれる気がする。これから先、ずっと一緒にいられたらいい。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/159743801/picture_pc_06b3748a9e26b148029133dc4c46e79c.png?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/159743775/picture_pc_3f195293d648a44cfa62f693313a1f50.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/159743799/picture_pc_3f2e5b4105a59227cf5a168d81d481c5.png?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/159743791/picture_pc_7fefde26a5255ec84f9968c415c51f77.png?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/159744478/picture_pc_721cb0d82953170d50689804fe948923.png?width=1200)