買えなかった喪中ハガキ

12月になってすぐ、私は本屋さんに行った。入り口近くに、クリスマスカードと年賀状が大きく置かれている。その一番端っこ申し訳なさそうにいる、色の淡くて控えめな喪中ハガキを私は手に取っていた。

私はまさにこの喪中ハガキのようだ。
キラキラとこれから来る年にワクワクしている街を行き交う人の中に、モノクロになった私が隅っこにひっそりいるような…。

今年、桜の蕾がピンク色になり始めた頃、母は開花を待たずに静かに空に導かれていった。

母の死は、今まで感じたことのない喪失感と絶望感でいっぱいで、悲しさなんて軽々と通り越して、心が痛くてたまらない。
でも、母は痛みや苦痛から解放されきっとホッとしているんだろうと思うことで、この心の痛みが私のひとりよがりな考えだと思い知らされるけど、この心の痛さは、母への愛と比例している。だから一生心は痛いままだし、それでいいんだと思うと、この痛みも大切にしたいと思えるようになった。

ただ、喪中ハガキを手に取った時、心の痛いところをぎゅっと握られたように痛んだ。私にとって喪中ハガキは、2019年に母を置いていくのを、可視化したようなものだ。そして、人混みの中で母とはぐれてしまった子供のように心細くなった。今でも母の姿を探して、面影や思い出を探している。

「歩みは止められないよ。」とこの喪中ハガキが私に投げかけているようだった。このキラキラとした年賀状売り場の隅で喪中ハガキはひっそりと人の痛いところをぎゅっと掴み、そしてそっと背中を押す。このハガキを送ることで、大切な人との最後の一年を区切り、新しい一年を迎えるために。

でも、この喪中ハガキを手に取ったら、やっぱり母がいないということを強く痛感してしまって涙で喪中ハガキの文字が滲んだ。このまま本屋にいたら、そのうち声を出して泣きそうだった。そっと喪中ハガキを戻して、駆け足で車に戻った。

まだ私は母がいなくなったことを受け入れられていないんだな。でもそれでいい。焦らなくていい。ゆっくりでいい。そう言い聞かせながら、自分の気持ちを落ち着けた。

そして、今年も残り2週間を切ってしまった。喪中ハガキは出せていないまま。

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