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103「小僧の神様」志賀直哉

148グラム。志賀直哉を褒めておくと小説をたくさん読んでる人っぽい感じが出せる、というイメージがある。一方で「ほほお、私も好きなんですよ」などと言い出すホンモノに出会ってしまうと一気に逃げ場がなくなるというイメージも、ある。

 「小説の神様」と教科書にまで書いてあるからには、志賀直哉という人は何か複雑で高度なことをおどろくべき緻密な計算の上で破綻なく完成させるとか、あるいは、あのクオリティのものをあのスピードと量でよく書くよね、とか、そういう作家なんだろう、というような想像をする。

 そんな先入観を持って『小僧の神様』を読むと、「神様」ってもしかして冗談で言われてるのか?といったん心配になる。そのあとに十篇を全部読み終わって、「あっ、そっちの神様かーっ」と思い直す。そっちの神様がどっちの神様なのかは自分でも不明瞭だが、とにかく天然なのか計算なのかよくわからない不思議なところがたくさんある。とりあえず人間業ではないな、っていう気持ちになる。

 そもそも『小僧の神様』の終わり方はどうなんだ。わずか16ページしかない小説なのに、最後は唐突に作者が出てきて、「実はAの住所に行ってみると家はなくて小さい祠があったという結末にしようとおもっていたんだけど残酷だからやめた」などと言い出す。いきなり出てきてそんな腹立ちまぎれにぶん投げるような告白で終わらせるのはありなのか。

 もっと言わせてもらえば神様。最初に考えた結末をやめたなら別の結末を考えてもらえないものか。小僧のエピソードとAのエピソードが融合しないままぶちっと途切れてて脳みその中でなんとなく納まりが悪いではないか。
 神様がこれ以上どんなエンディングをつけても蛇足になるからいっそ何もないほうがいいのだ、と思ったのならむろんそのほうが正解なのだろうが、最後に変な言い訳をつけるからなんとなくそういう後ろ髪ひかれてしまうのではないか。わざとやっているのか。飽きちゃったのか。

  あるいは、『焚火』という短編。芥川龍之介が大絶賛したのだと、解説に書いてある。困ったことに、もっとも印象の残っていない作品だ。「いったい何の話してるんだろう?」と思いながらページをめくってるうちに読み飛ばしてしまっている。
  慌てて戻って真面目に読み返すと、なるほど普通こうは書けないよなあ、という気になった。意図してるのかしてないのかわからないくらいの接続の緩さで印象がつながっていき、温泉につかってるよう。これはむしろ玄人をびっくりさせる邪気のなさなのではないか。注意して読まないと、こちとらぼんやりは作為がなさすぎて読み飛ばしてしまう。ほとんど静物画みたいだ。構図が、とか色の配置が、とか技術的な理屈の見える人でないと目に止まらない。

 それにしても、「小説の神様」という言いようには少し揶揄の匂いを感じてしまうのだけど、誰がどういう意味で言い出して誰が言い続けてしまったのだろう。
  文机に向かって正座して小説を書き続けているせいで膝小僧に固い座りダコでできて、だんだん人面瘡みたいになってきたので「小説の神様」と名前を付けて、筆が止まるたびに話しかける志賀直哉が頭に浮かんでしまうので、なんとなく妙だ。



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