読んでない本の書評40「てんやわんや」
177グラム。てんやわんやというわりにはずっとただの居候なのであまり持ち重りもしないのである。
先日、ラジオを聞いていたらある女性からのこんな投書が読まれた。
いわく、家で夫に話しかけると、いつも「結論から言って」と言われる。毎回のことなので話しかける前にまず頭の中で話の構成を組み立てるようになった。すると、考えているうちにこれは話さなくてもいいな、と思うことがふえ、結果、あまり話しかけなくなったという。
むーんっ、と唸り声がもれるほどの惜しい話である。その失われた話は絶対に面白い。なんならコーヒー代を払ってわざわざ喫茶店に聞きに行ってしまうほどに、とりとめない話というのは手に入りにくい貴重なものであるのに、あたら空中に散らしてしまうとは。
しかしおそらく、くだんの夫さんも真面目な人なのではあるまいか。自分は忙しく常に考えなければならぬことがたくさんあると思っていて、だからいつ終わるのか見えない話に相槌を打つ注意力を使うのがしんどいのかもしれぬ。雲散霧消していくその無駄話はたいへんに惜しいものだが、そういうせせらぎみたいな産物にはじっさい波長と言ったものがあるのかもしれない。
獅子文六を読むとなぜだか眠い。事件が起こっているような起こっていないような、平熱の低い感じの主人公に意識を半分さらわれてしまうものか、とにかく開きさえすれば眠るのだ。終戦直後の風俗も興味深いし、起きたことを全部同じ大きさでじゅんぐりに並べていくような軽妙な感じも面白いとは思うのだけど、とにかくページを開くとまぶたが閉じる自動人形なので読むのが大変だ。
いずれ小説をまぶたの裏で読むようなよりおおらかな境地がやってくれば、喫茶店の隣の席で語られている知らない人のうわさ話のように斬新に沁み込んだりするだろうか、と考えながらまた寝ている。
おのれのことを、たいそうのらくらした性格だと信じて疑わないものの、目下、獅子文六より火星人が地球を侵略しにくる話のほうを熱心に読むようなところがあったりするのは我ながらちょっと意外なことだ。