読んでない本の書評49「眼球譚」
98グラム。ちなみに眼球の重さは7グラム程度、鶏卵はMサイズ50グラム程度、牛の睾丸は200~300グラムくらいらしい(理解の難しいものは重さで把握するクセがついてきた)。
タイトルを見ただけでも、読んで楽しい気分になるような本ではあるまい、と察してはいた。しかしページを開いてみると、楽しいとか楽しくないとかいう問題ですらなく、情景も浮かばないしそもそもなんだか分からない。
高校生カップルが猫のミルク皿の上に座るところこから情熱的に話しはじめられても、それはつまりどういうことなのか。猫の皿がすごく大きいのだろうか?
困ったときには、すぐに巻末の解説に助けを求めるようにしている。そこには「非合法出版ポルノグラフィー」として出版された旨書かれている。なるほどそういうことか。それではそのつもりで読むとしよう。
気持ちを切り替えて、ポルノグラフィーなんだな、と思いながら読むが思った以上に何も解決しない。
なんだか怖くなってくるので、かくなるうえは、伝説のラジオ番組「伊集院光の深夜の馬鹿力」をかけながら続きを読む。五島列島の漁村で大漁旗をリメイクしたレインボーカラーのエプロンを着て、脈絡ないシモネタを口走りながら、おりおりに「アイム・クレイジー・グランマ!」と叫ぶ扱いにくい陽気な老婆のエピソードを聞きながら、黙々とバタイユを読み続ける。真剣異種格闘。
玉子をやたらと無駄遣いする描写が出てくる。食とエロを接近させる娯楽って、ノーパンしゃぶしゃぶの時代からちょっとよく分らないんだよな。牛の睾丸をおいた皿の上に座る。牛の皿は猫の皿より理解の難易度だいぶ上がってるじゃないか。それから僧侶の目玉。幻想なのか現実なのかわからないが、僧侶が気の毒過ぎてポルノグラフィーどころではない。
そうこうするうちに「アイム・クレイジー・グランマ!」が終わってしまったので、続いてチャイコフスキーの「くるみ割り人形」を聴く。なんとなく、人生は祝祭だな、というわけわからない気持ちになってくる。
第二部。自分が書き上げた小説によって自分の経験してきたことの中のどれとどれに関連性があったのか自ら発見していくところは、意外にも身につまされるところが多くて感動的だった。愛と嫌悪感、死のイメージと性のイメージがどれほど近いのかが概念的哲学的な話ではなく、生理的なレベルで想像可能になる瞬間が突然くる。
全編通してほぼ頭抱えっぱなしだったけど、あれ、結局は読んでよかったぞ、という気持ちになったのが最後の衝撃。