北京入院物語(79)
前の項に異議を唱えられる人は少なくないと思います。
私も筆が滑りすぎたことを後悔しています。
病気が回復しても意味がないという捕らえ方をされないことを願っています。
あの文面は幸福というものを追及していくことの難しさや、幸福を維持していくことの難しさについて書いたものです。
障害と幸福について、京都ライトハウスの初代館長 故・鳥居篤治郎が詩を書いています。
(引用)
盲目は不自由なれど
不幸にあらずとしみじみ思う
前項に戻りますが、私のように病気で歩けない人が、歩けたらどんなに幸せだろうと思うのは当然です。
けれど、健常者にとって歩けるということを幸福と思う人はいないでしょう。
なぜなら、もともと歩けるからです。
盲目の逆は晴眼です。
では、こんな詩はどうでしょう。
晴眼は自由なれど
幸福にはあらずとしみじみ思う
人は何かを獲得しようとし続け、獲得した瞬間に深い達成感を味わいます。
このことは、障害があろうが、なかろうが、できることです。
少なくともその点では平等ではないでしょうか?
先の詩では、鳥居先生が、不幸にあらずとしみじみ思うと、強く前に踏み出している点に、鳥居先生の獲得した幸せを感じます。
難しい幸福論は、童話で締めくくりとしておきます。
貧しい家に育ったチルチルとミチルの兄妹は、しあわせの青い鳥を探しに旅に出ます。
さんざん苦労して家に帰ってくると、青い鳥は家にいたというメーテルリンクの「青い鳥」は、なかなか意味の深い物語です。
北京入院物語(80)
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