虚(がらんどう)な言葉の話
私たちは言葉を並べて意思疎通をし、
相手のことを知り、
自分の中の感情になまえを付け、
心に溜まるモノ、意思と意志、感情、思慮、思考、、、、、それら全てを言葉によって消化しています。
辞書を捲れば、言葉が意味を従えて並んでいるように、私とあなたの間にある言葉たちは、それぞれ共通の、全く同じ意味を抱えてそこにあります。
私の「嬉しい」とあなたの「嬉しい」
私の「悲しい」とあなたの「悲しい」
私の「綺麗」とあなたの「綺麗」
ほら、書いてみたら全く一緒だ、
寸分違わず同じ文字として、音として、意味として、そこにある。
でも、本当に同じなのだろうか?
自分の中に積み重ねた今までの自分の感情も、あなたの感情も、文字に起こしてしまえばきっと、似たり寄ったりの言葉の羅列に集約されてしまう。
本当に本当のあなたの感情は誰に伝えることも出来なくて、
あなたの中にしかなくて、、、、、
言葉は、誰でも辞書を捲ってしまえば知ることが出来てしまいます。
言葉は誰のものでもなくて、
誰でも使えるもので、
普遍的なもので、
ただの記号で。
それ故に、言葉は空っぽなのです。
ひとりひとりが異なる思想を持ち、異なる思考をする。
であるのにも関わらず、出来合いの意味コードでしかない言葉に落とし込めば、それらはたちまち普遍的なものになる。
個性は個性ではなくなり、「私の」思慮は私から離れてゆく。
あなたが言葉に託したい本当の意味、意志と意思、感情、思慮、思考、それは全て言葉の枠の外側
_______言葉の選び方、組み立て方、ならべ方、伝え方、、、
にうっすらと影を落とすばかりです。
ニンゲンの違いは全て言葉の外にある、
出来合いの意味コード以上のものを背負い込んだ言葉には、亀裂が入る。言葉がその負荷に軋んだその時、風がそこを走り抜ける。本当の自分が見えてくる。
言葉の意味ばかりに囚われてはいけないと私は思います。
言葉はとても、とても怖いものです。
自分の複雑な思考、思慮、それら全てが言葉に集約されてしまえば、自分の中にあったそれは言葉でしかなくなってしまって。
自分のものではなくなってしまって。
それは怖い、とてもとても怖い。
私は今、そんな恐怖とやり合いながら、私の中の思考を精一杯言語化しています。
それをなるべく削ぎ落とさないように。
削ぎ落とされてしまったそれも、言葉の隙間に影を落とすように。
私たちニンゲンが、相手や自分を、理解して想って過ごすためには、どうしても言葉に頼らざるを得ないから、言語化すること以外に方法は無いから。
だからこそ私は、
言葉に呑み込まれないように
言葉とたたかいながら、
言葉にある隙間の埋め方を、
私だけの言葉の使い方を、
がらんどうな言葉との付き合い方を、
今日も明日も考えてゆこうと思います。
自分と向き合うため、
他者と向き合うため、
私が私らしく生きるために。
風が走り抜けるまで。
月嶋 真昼
2018年 10月10日
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