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理由とかそんな大層なもの、

無いんだよ別に。

写真を撮るにつけてもそう。
以前のわたしは、何を始めようが終わらせようが、何を好きになろうが嫌いになろうが、そこに当たり前に理由があると思ってた。だって、そう教わったんだもの。
写真を撮る理由を、このnoteに書き並べてみたことすらある。けれどもそんな大層なものを常に抱えている器用さを、わたしは持ち合わせていない。

年越しと私、撮る理由。|月嶋 真昼 @noontime_moon #note https://note.com/noontime_moon/n/n8a29e9662caa 

私は今ハタチ手前、これを書いたときから2年経った?のかな。わたしは今も晴れてる地球しか愛せないし、ファインダー越しに眺めた景色を写しとったそれを愛せたからと言って、その景色のなかに確かに居たはずのわたしを愛せるようにはなってないし。
わたしは今も私のことが嫌いなまんま、特に理由も無く、ファインダーを覗いてみたりみなかったり。

今は、理由なんて大層なもの、あんまり考えたくない。

好きなモノゴトに大層な理由を付与してしまったら、素直な好きという感情を忘れてしまいそうになる。
3歳くらいの小さい頃からずーっと、本を読むことが好きだったのに、本がこれっぽっちも読めなくなった時期がある。語彙を増やそうとして、本の隅から隅まで分からない単語をいちいち調べようと決めたら、1ヶ月続くか続かないかのうちに、読めなくなった。
言葉を自由自在に扱えるようになりたかったわたしは、読書をその訓練としてしまって、読むことそのものに義務感をおぼえ、義務感は好きという気持ちをわたしから奪い去ってった。
大層な理由は、ときに義務感を引き連れてきてしまう気がする。

本当に本当にいちばん大切にしたいことにだけ、理由がほしいな。それをわたしの思想の軸にしたい。「大切にする」ことに義務感が生まれて、それにわたしが苛まれることになろうとも守りたい「大切」だけに、それはそれは大層な理由を付けておこう。
今はそう思う。大層な理由が必要なほど”大切にしたいこと"が何なのかはまだイマイチ分からない。

あーもうほんと、世の中の人みんなみんな、正当な理由とかなんとかを求めすぎなんじゃないの?知らないけど。
わたしはわたしの人生を生きているので、わたしだけの思想があって、今のわたしはあまり「理由」に縛られたくない。それだけの話です。

写真を撮るのも、本の世界に浸かるのも、頭いっぱいに音楽を流すのも、唐突に海まで行くのも、誰かを好きになるのも、衝動だけがそこにあって、大層な理由なんてものは無い。その自分のなかの衝動に感度よく生きていけたら、どれだけ素直な人生を歩めるんだろうか、わたし。

ま、人生そんなに簡単に歩けないか。

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