タスマニアデビル(仮)の挑戦
毎日通う駅の看板にある動物園の紹介ポスターが目に止まった。
そこにはある動物(今回はタスマニアデビルと仮定)の写真が貼られていた。
目にちゃんとした光を宿ししている愛くるしい姿であった。
さらにタスマニアデビル自身が話しているかの如く、写真の隣に吹き出しがあった。
「チクワちゃん(仮名)世界一の長寿に挑戦中」
「挑戦中?タスマニアデビルが?」
そのポスターの文言が気になった。
なぜ気になったのか考えてみる。
まず「挑戦」というのは、「困難なことに挑むこと」である。
世界一を目指すのでチクワちゃんにとって「困難なこと」というのは分かる。
しかし、「挑む」とは「かかっていく」「立ち向かっていく」という能動的な意味が含まれている。
生物であるチクワちゃんは、長く生きたいと本能的に思ってはいるだろう。
しかし、世界一を見据えられているのだろうか?
「おっしゃ、わしゃ世界のてっぺんとったるで。」
といったことを意気揚々と話せれば、「挑戦」で納得するのだが動物園という限定的な場所で暮らすチクワちゃんには荷が重すぎるのではないか。(限定的な場所故に自然界よりも安全を保証される利点はあるが。)
やはりチクワちゃんの真の幸せを願うのであれば、あらゆる教訓本でよく言われるような「どれだけ生きたかより、どう生きたか。」ではないのだろうか。タスマニアデビルの価値観はわからないので安全な動物園で過ごすことが幸せかはわからないが、そこに居る以上はできるだけの幸せを享受してもらいたい。
もしかすると、チクワちゃんに「どう生きたか」ということを意識してもらうこと自体もハードルが高いかもしれない。かといって挑戦をさせることで、仮にだが挑戦に失敗してしまったチクワちゃんが出てくる可能性もある。
挑戦したこと自体が立派(そもそも人間側が挑戦しているだけだが)かもしれないが、挑戦が叶わないとなると、どこか残念な気持ち生まれないとは決して言えない。チクワちゃんの生をないがしろにしてほしくない。すごく勝手な個人的な意見としてはチクワちゃんは挑戦せずに伸び伸びと生きて欲しいものだ。
一方で、挑戦することで話題性が生まれ、動物園の利益となり、結果的にチクワちゃんの環境が良くなる可能性もあるので、一概に挑戦させないでとも言えないなとも思う。「チクワちゃん世界一問題」は難しい。
ただの言葉の揚げ足取りになっているが、チクワちゃんは世界一でなくとも健やかに生きていくことを願っている。そして、チクワちゃんが世界一になった暁には改めてお祝いさせて頂きたい。