見出し画像

自閉スペクトラムの僕は



まじめに

ロックンロールオタクの僕がどうもまだ死にそうにない。
12月、来年の4月には28歳となり晴れて凡夫が証明されてしまう頃だった。

真っ白い壁がどうも落ち着かない部屋で、眠そうなカバみたいな顔の院長は僕に「アスペルガー症候群ですねー」と告げた。
それには確かにハイフンが付いていた。
ですねー。お薬出しときますねー。の、ー。軽い。
一昔前は高機能自閉症と呼ばれたし、今は自閉スペクトラム症と呼ぶそうだ。何でもよろしいわ。
かくしてドラッグやショットガンなんて遠い話で、今までの僕の当たり前が静かに死んだ。27歳だった。

小学4年生になって隣町へ引っ越した。築年数の古いマンションからそろそろ抜け出したかったであろう両親の意を汲むぐらいにはマセていたし、転校に関して心配されたが上手くやってのける自信があった。僕にはユーモアがある。
間も無くそれは何の役にも立たないことを、大人の悪意を知る。
この時の経験が無ければ僕はのんべんだらりと地元で“それらしく”生きていただろうし、とっくのとっくに死んでいたとも思う。

産声をあげて程なく病室で笑いをとった。
家で流れる歌謡曲や映画をみるみる覚え、幼稚園のお遊戯会でそれらを発揮したせいで呼び出しを食らう母。
理髪店では隣の席の波平にパンチラインを決めて、祖父の仕事で使うファックスの感熱紙を引っ張り出して怒られた。
鶏小屋の前で披露したジム・キャリーのモノマネは今思えば山寺宏一の真似で、その半年後には転校先の担任にイジメられる。それはすぐに波及してクラスから全校生徒に変わった。
兄のCDラックからくすねた音楽を聴いた途端に視界が広がって、違法のCSチューナーは僕を別の場所へ連れて行く。
十代の終わり。コメディアンになって、全てが変わると思っていた。いじめられる方にも責任があるって言葉は本当かもしれない。
どこに行っても間違いだらけの僕は今もよく間違える。何をって、この世界の正しいを全部。

これを読むあなたはどこのどなたの、何時何分何秒の、地球が何回周ったタイミングかは存じ上げませんが。あなたと同じ時代にね、こんなバカが居たんですよ。
自分はマシだとか、いやいや私の方が不幸せであなたは恵まれているだとか勝手な感想を携えて、どうか寝て起きて。飯食って屁をこいて恋をしてください。
僕は自分の半径数メートルで手一杯。
これは別に誰かの救いになる話ではないと思う。そう言い切るのはこれを書いている僕は今ものたうち回っているからだ。
始まりは全てが勘違いで、どうにも僕は自分を過信していた。今もか。

自閉スペクトラムの僕は、
生まれてすぐウケた。

1988年4月14日午前4時41分、大阪の天王寺は鉄道病院で生まれた。
1865年4月14日、アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが凶弾に倒れて123年。
1912年4月14日、タイタニック号が氷山にぶつかった76年後の事だ。
こんな日に生まれた僕の人生はほとんど決まっていたんじゃないか。

出産前、次男坊の名前が一向に浮かばない。
候補を考えながら酸っぱい物が欲しくて柑橘類をしこたま口にしていた折、母は雷に打たれた。

「この子の名前、八朔(はっさく)でいくわ」
その翌日、病室には両家の親戚筋で溢れかえった。それぞれが手には姓名判断の本を持っていたそうな。する事もない母は読み漁り、どの流派にもケチのつけようのない「尚平」と名付けた。
この尚平はほんの少し後に神童と呼ばれる事になるが病室の中にもその片鱗はあった。

母の乳を吸いに吸い、看護師さんがそれを微笑ましく見守る。少し経つと寝息を立てる赤ん坊に安心して病室を後にした途端に大泣きするのだ。何事かと戻るとまた腹を空かせたらしい。
病院職員の中で、母乳を飲む量とピッチの早さで爆笑をかっさらった。これがいけなかった。この笑いに味をしめたせいで今がある。

2歳になる頃、母がベランダで洗濯物を干していたのをよく覚えている。あの洗い立ての匂いも、お日さんの熱も、緑色の塩化ビニールでペイズリー柄の床がぺたぺたと肌に貼りつく感じも。

専業主婦だった母は音楽を流して家事をした。パナソニック製の黒い大きなコンポの筐体からはレベッカや杏里に松田聖子が流れ、それに合わせてベランダで熱唱する。ジャスミンティーにはカフェインが含まれているので眠りを誘う薬でないことを知ったのは随分と後だ。

またテレビもよく流れ、相場はワイドショーなんだろうけどVHSで録りためた映画を流していた。
テレビ台のガラス蓋を止める為の黒いコの字型の金具を取り外して手で転がしながら、僕はバック・トゥ・ザ・フューチャーを観ていた。
そうやって毎日が映画漬けになって、あまり子供を子供として扱うような言葉使いで会話をしない両親と7つも上の兄のせいでお陰で数年後、もう同級生と馴染めなくなる。

気になった事、思った事は何でも口にした。
家の近所のヘアーサロン「マツバラ」はオッサンの整髪料の匂い、首に巻くシート、お湯の温度、革張りの椅子が擦れる音そのどれもが気に食わず僕はイライラしていた。母は目の届くところで女性誌を読んでいる。
60過ぎのおじいさんが隣に座った。当時の60なんで凄くおじいさん。ヘアスタイルは波平よろしくサイドだけ髪が生えトップに申し訳ない程度の毛束を残す逆ツーブロック。僕はそのおじいさんの頭頂部が気になって仕方なかった。

マツバラのご主人が整えようと細心の注意を払ってカミソリ刃を波平にかざした。

「おっちゃん、何で来たの?このおっちゃん、もうじき毛ぇ全部なくなんで」

母は週刊誌を床に落とし、マツバラの奥さんは僕の頭の上で噴き出してしまってくしゃみのフリをする。ご主人は笑いを堪えるあまりに手元が狂って最後の一束を剃り落とした。
僕のそれらは確信犯で得意になった。
店を出るおじいさんは僕を強く睨みつけた。それに気付かないみんなは大声で笑った。
僕は何となく、自分の言葉は人を傷つける事を知った。

‼️🆕‼️自閉スペクトラムの僕は、
気分はスピルバーグ。

幼稚園の同窓生はもう40前なのか。今になって会う者はただの一人もいない。後の小学校もなかなかの苦行であったが、この頃の僕はウルトラマンごっこの輪に入れないでいた。社交性の部分ではなく仮面ライダーが好きだったせいで彼らとは共通言語がない。十字の腕から放たれた目に見えない光線に倒れるのが不服で僕は何も出来ず、園庭の隅で泥団子をいかに綺麗に作るか熱中した。

GANTZが出来上がった頃、普段は口もきかない女子が群れを成してやって来た。今も昔もこういう時は大体ロクなことがない。
「セーラームーンごっこ」のタキシード仮面役を仰せつかった。原作ファンはどうか怒らないでほしい。
一人じゃ寂しいだろうからとこちらに気を遣った素振りが気に入らないが、球体を作り終えた今は手が空いている。断る理由もなく呼ばれるまま彼女たちに合流するとウルトラ兄弟から冷やかすような声が飛び交う。

僕はセーラームーンを観た事がない。最初はつたないながらも女優陣の芝居に食らいつくがディテールが甘い。だって知らないんだもの。不満の声が上がっても何も応えられなかった。

土曜日の夕食時、「美少女戦士セーラームーンS(第3シリーズ)」に齧り付く息子を母はどう見ていたのだろう。僕は演技プランを立てた。

月曜日、砂場には確かにタキシード仮面の姿があった。祖父の家で観た時代劇の「風車の弥七」を参考に折り紙のバラを投げ、颯爽と現れ鬼気迫る演技で主役を食ったせいかセーラームーンが退団、次の日にはセーラーマーズが、週末にはちびうさとタキシード仮面だけになりあえなく劇団は解散となった。

年長になるとお遊戯会の季節がやってきた。演目は「ピーターパン」で、配役はもちろんクラスの人気者が挙手制で良い役をぶん取っていく。
ピーターパン、ティンカーベル、フック船長と次々に決まっていく中、普段は輪の中心で騒いでいる少年が一向に手を上げない事に野本先生が心配そうに見ている。その視線を横目に僕は静かに腕組みをし、その時を待った。

「じゃあ…インディアンの族長をやりたい人」
僕は天高く左手を上げた。
セーラームーンでの失敗からバイプレーヤーの魅力に気付いたのだ。

稽古が始まった。
台詞覚えに苦戦している奴、覚えたもののセリフ回しがおぼつかない奴、目立ちたくて脈略のないアドリブを入れる奴(岡島タエ子ちゃんかよ)。どいつも話にならなかった。
見かねた僕は口火を切る。

「マイケル・J・フォックスとクリストファー・ロイドならそうはしない」
「アーノルド・シュワルツェネッガーならここで大立ち回りをするよ」
「スティーヴン・スピルバーグはね」

ハリウッドを引き合いに出し演技指導をさせてもらった。
次の日、母は幼稚園に呼び出しを食らった。

本番の芝居は滞りなく進む。袖では出番を待つインディアン達が震えている。情けない、何を怯えることがあるんだ。こちらには正義がある。
族長は自分の集落の体たらくに落胆していた。

ラストシーンに差し掛かる。ピーターパンとフック船長、因縁の対決だ。
数にものを言わせたフック船長にピーターパン一味が押されている。そこに族長を先頭としたインディアン達が加勢して見事に勝利する。勧善懲悪の退屈な脚本だった。

だが族長はキッカケ台詞になっても出ていかない。

「尚ちゃん、出番やで?」
馬鹿が、こんなタイミング良く出て行ったら如何にもご都合だろうが。
宿敵との対決で観客に見せないといけないのはピーターパンの苦悶の表情、高笑いで恐怖のどん底に陥れるフック船長、手に汗握る戦いだ。
まだだ、まだ出て行ってはいけない。芝居が嘘になる。
何をしているフック船長、高笑いを延々と続けて袖を見るな。今からこの導線で誰かが出てくると客に気付かれてしまうだろうが。
それにいつまで笑っている。稽古の時は意気揚々とアドリブを入れていただろう、やるなら今だ!

「ねぇ尚ちゃん…」
「まだ、もう少し…」
すると、客席にも聞こえかねない怒号が後ろから飛んだ。
「先生の言った通りにやりなさいよ!」
セーラーマーズだった。ケッ、素人め…。
渋々と舞台に出て威勢よく声を上げた。

「僕達も助けに来たよ!」
客席で息子の登場を待ちわびていた母よりもフック船長が嬉しそうだった。
「ええい、やっつけてしまえ!」
不安から解放され、裏声で叫ばれた号令の下に乗組員がインディアン達に切りかかる。台本ではここで族長とフック船長の一騎打ちだ。

族長の一太刀でフック船長の「やられたー!」と絶命し、後はピーターパンがダラダラと蛇足の締め台詞で幕を閉じる。
そうはいかない、客の前で嘘はつけない。

「何してんねん、切れよ…!」
「アホか、こんなヴィランが一撃で死ぬわけないやろ。お前が切ってこい」
敵役とはそれもまた主人公だ。お前も主人公なんだからもっと来い。
インディアン達が次々と勝ち名乗りを上げる中、族長と船長だけが鍔迫り合いのまま静止している。

「ぅわぁッ………わ゛ぁーッ!」
我を失った船長が白目を向きながら切りかかってきた。これだ。求めていた芝居はこれだ!そんな顔出来るんやんけ。
最後の一太刀が決まりフック船長が倒れた。その横ではタイミングを待てずに長台詞を言い終わったピーターパンが涙目で立っていた。

帰り道、何かを言われた母は手を繋いでくれなかった。先生の"キョーチョーセー"って言葉だけが耳に残った。

卒園を前にしたある日、講堂に全園児と一部の保護者が集まった。
4月生まれの僕はお誕生日会だと気付いていた。3月生まれと4月生まれの園児が前に整列、皆の視線が集まる。
騒がしい子供で埋まるそこは雑音だらけで堪らなかった。下級生の女の子がおもちゃを盗られたとかで金切り声を上げている。
今すぐにでも飛び出したかったが母が見ている。いい子でいたかった。

それぞれの誕生日を控えた子供たちの名前が順に呼ばれていく。
「野村尚平くん」
その時の返事に族長のような威勢は無かった。
催しも佳境になり、園長先生のスピーチが始まる。僕の体はつむじからつま先までビリビリと痺れていた。
お誕生日会では恒例の園長先生によるアコーディオンの演奏が待っていた。
僕にはその音が大きすぎて、どこか不気味で大嫌いだった。加えて園児たちは依然として騒がしくしている。おもちゃを盗られた女の子もまだ泣きわめいている中で園長先生が得意げにアコーディオンを担いだ瞬間、僕は爆発した。

「みんな耳塞いで!園長先生のアコーディオン、うるさいから!みんな耳塞いで!」
耳は塞いで貰えなかったが、何とか静かにしてもらえた。母は顔を真っ赤にして恥ずかしそうに俯いていた。

講堂を後にする時、友達のお母さん達が僕を見て何か話している。表情からそれが良くないことだと分かった。
母はまた先生と話していた。何度も何度も頭を下げていた。

「何であんなこと言うたん。園長先生、悲しいでしょ」
「あんなうるさいの、何でみんな何も言わないの」
「みんな嫌いとは限らないでしょ、何で我慢しないの。何で思った事をすぐ口にするの」

僕は褒めてもらえると思った。皆の気持ちを代弁して、理髪店のマツバラみたいに大人は笑ってくれる。
でもそうはならなかった。

帰り道、母さんはまた手を握ってくれなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?