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【読感】痔と芸術についての現在地点:「人体、5億年の記憶/からだの中の美術館」(布施英利/著)
※本書に関する解釈、およびコーポリアルマイムに関する記述はあくまでも現時点での私の理解のため至らぬ点はご容赦ください。
昨年の10月、切れ痔になった。
読書感想文の出だしにいきなり下の話で申し訳ないのだが、読書体験に大きな影響を与えた出来事なので、少々私の苦悩にお付き合いいただきたい。
正確に言えば、症状が悪化したのだ。用を足すごとに、まるで熱した鉄の棒をケツの穴にぶっ刺されるような激痛。悶絶しながらベッドでうつ伏せとなり、ただただ痛みが過ぎ去っていくのを待って眠れない日が続いたこともあった。ついには食事の時でさえも「出す」ときの苦痛を思い返してしまい、暗澹たる気持ちでのどが詰まるような始末であった。
捻挫や切り傷であれば「足が痛いから走るのを辞めよう」だとか「指を切ったから、こっちの手を使うのを辞めよう」など、使わないという選択肢もありうるのだが、いかんせん痔が鎮座する消化器官というものは四六時中働かせ続けなければならない部署であり「今日は大腸の動きを止めよう」だとか「こっちのおしりが痛いから、別の出口を使おう」などといった便宜は図れない。この生存のための自傷ともいうべき痔の性質は、私にとって最も無慈悲なものだった。
ちょうど昨年の12月頃から本格的に専門の肛門科に通院するようになった。時には良くなったり、時には道端で座り込みながら、ついにこの夏に手術を敢行。食生活にも気を配りながら、今は快方(痔に完治はないようだが)に向かっている。これをご覧になっている皆様の中で、もし何かしらの違和感をお持ちの方は、明日にでも専門医にかかることをお勧めしたい。悪化してからの苦痛と比べれば、初診の恥じらいなど屁でもないのである(マジで大きな病気の可能性もゼロではないので…)。
痔の時に出会った芸術についての本
そんな痔との付き合いが長くなってきた今年の夏。ひょんなことから手に取った本が非常に面白かった。「人体、5億年の記憶/からだの中の美術館」(布施英利/著:光文社)。芸術を解剖学の視点から見つめ直すという本だった。
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前半では、無脊椎動物から脊椎動物、魚類から両生類、そして陸上に上がって二足歩行を獲得するまでの5億年の進化を人体の構造から紐解いていく。「直線的だった脊柱が二足歩行でしなやかな湾曲を獲得するまで」や「鰓呼吸の筋肉が、肺呼吸に移り変わるにつれて表情筋へ進化した」など、途方もない進化の成り行きは、当然のようでもあり、信じがたい驚きにも満ちていた。自分が”使っている”この身体にも、人類が経てきた5億年の記憶が刻み込まれていると感じると、ただまっすぐと立ちあがるだけでも、腰骨から背骨に至るS字の湾曲の上に人類進化のロマンティックな陶酔感すら覚えるのであった。
また本書で興味深いのは、胃腸や肺、心臓/血管、泌尿器科/生殖器など、栄養を吸収/排泄する内臓を「植物的器官(植物系)」とし、一方でそのために食べ物を知覚する目や耳、脳をはじめ、食べ物に向かう筋肉、筋肉を支える骨格などを「動物的器官(運動系)」として大別されている点だ。さらに、人間の「意識」は「動物的器官」に、「こころ」は「植物的器官」に拠っているという指摘が非常に面白い。
確かに「息が詰まる」「息をのむ」、「一息つく」、「胸が高鳴る」、「胸が締め付けられる」、「鼓動が早まる」、「腑に落ちる」、「腹がキリキリ痛む」など、「こころ」の状態を表す言葉の多くには、内臓の器官が多い。さらに、本書ではからだの基本形である消化器官の「一本の管」と紹介される。そこには、無脊椎動物から現在に至るまでの”生命の記憶”が埋め込まれており、そこには何億年もかけて培われた”宇宙のリズム(地球の自転、公転、重力などなど)”が刻まれているという、壮大な論へと展開される。
話を痔に戻す。痔になってから私は自身の消化活動にこれまで以上に気を使っていた。食物繊維の多い食事をし、よく噛んで飲み込む。朝はお水を飲んで、腸の活動を促し、適度な硬度の便を出す。しかし、喉元過ぎてしまえばなんとやら、食事はまるでブラックボックスに食べ物を放り込んだような感覚で不安感さえあった。症状が緩和した今でも、相変わらず気を使っているが、コントロールできない内臓の働きにかける想いは祈りのようでもある。
一方で、自身のバイオリズムというものをここまで強く意識したのは、人生でも初めてだった。自分の意識とは異なるリズム、それが何億年間という生命の記憶によって刻まれた”宇宙のリズム”と関連していると思えれば、まさに「人体に宇宙がある」という本書の言葉に強く共感せざるを得ない気持ちになった。そしてその”宇宙のリズム”はまさに私の心と直結していた。便秘が続く日は「腹に一物を抱えた」ような気持ちでどこか陰鬱で、何かが正しくないような感覚がある。かたやスルりと抜け出た日は、気持ちは限りなく晴れやかになり、まさにスッキリとした心持ちになるのだった。
「からだの中の美術館」
本書の後半では、「からだの中の美術館」として、からだという生命の軌跡から芸術に切り込む展開へ。これもまた非常に興味深い。
目の機能から紐解く大聖堂の光と闇や「Knight Rise」(ジェームズ・タレル)の空の色。認知機能から読み解くピカソからデュシャンの現代アート、脊柱から見つめる大リーガー バリー・ボンズの言葉。森羅万象、古今東西様々な芸術や美に、解剖学の新しい視点が吹き込まれる。その試みの中には、「一本の管」から形成されてきたからだが深く関与していることを鮮やかに描きだしている(その一方で言い切りでは評さないのは分かりにくくもあり、自身への余白のようでもある)。
ある種の解剖学的な視点を持った演劇様式
また、本書を読んでとても嬉しかったことは、芸術とからだにおける深い関係と、現在学んでいる「コーポリアルマイム」の身体感覚にいくつかの共通点を見いだせたことだ。
役者芸術であるコーポリアルマイムは、ある種の解剖学的な視点を持ち合わせているとも思えた。ヘッド(頭)、ハンマー(首)、バスト(胸)、トルソ(お腹)、トランク(腰)、エッフェル塔(全身)をアーティキュレート(文節分け)することによって緻密に身体の在り方を創り出していく。時には統一感を持たせ、時には相反するデザインを創ることで、非常に様式化されたなかで、人体の構造の可能性を追求しドラマを生み出していく。
演劇として人に見せるという性質を持つ以上、骨格と筋肉で作りだしていく”側”にフォーカスした非常に客観性の強い表現形態ではあると思う。しかし、その動きの源泉には感情や思考など内面(内臓)の働きも強く関与している。例えば、「マスキュラ―ブリージング」(筋肉の呼吸)と呼ばれる表現がある。何かの動作へ移行する際に、身体全体をにわかに”膨らませる”ようにして呼吸を表現するのだが、それは単なる上半身のふくらみではなく、オーディエンスに演者の決意や決心、怒りや優しさなどを感じさせる効果がある。それは内臓の動きを外に意識的に表出した結果なのではないだろうか。
その他にもバストの動きを一つとっても、上向きから下向きか、右に傾いているのか左に傾いているのか、少しの違いだけで役者の外見的な印象は大きく変化する。それと同時に役者自身の心理的な状態へもフィードバックを促す。よくその日のレッスンの冒頭には、「ラ・パン」と呼ばれれる、身体をかかがめた姿勢から、天に頭が引っ張られるように力強く上に立ち上がるトレーニングがある。言葉で言うのは簡単だがこれが結構難しい。スタート地点で、湾曲した脊柱の姿勢を作りながらバランスをとるだけでも一苦労。当初はデザインを正しく矯正することに意識は大忙しとなる(現在もそうだが…)。しかし、少しづつ身体のデザインに慣れてくると、力強く立ち上がった瞬間に地に根差しているような充実感を感じられることもある。その逆も然りで、内面的な充実感により、身体的な表現はよりエネルギッシュに、意識的に到達するのとは異なる次元にまで至れるような想いもある。
内臓的なエロティシズム「コンペンセーション」
また「コンペンセーション」と呼ばれる動き方も面白い。詳しい説明は割愛するが、各部位のデザインをある一つの方向性から逆方向に向けてそれぞれ順々に動かしていく表現だ。練習ではその動きを繰り返すことで全身をウネウネとねじらせていく。日常生活ではおおよそ目にすることのないような奇妙な動き。その時の先生のアドバイスは「モチモチとセクシーに」だった。当時の私はその突飛な表現に思わず吹き出してしまったが、今となっては合点がいく。それは非常に有機的な、人間的な動きなのだ。角のない丸い柔らかさがあり、ねっとりとした粘着質と生暖かい温度のある動き。まさに蠕動運動が表出化したような動きだと思えるのである。またコーポリアルマイムではそのウネウネした動きから人間の悩みや葛藤など思考の方向性を結び付け、表現を紡ぎだしていくこともある。ともすれば、その意識のうねりの表現にも「一本の管」が培ってきた記憶が刻まれているのだ。確かに舞台上における「コンペンセーション」から直接的に小腸や大腸を連想する人は少ないだろう。しかし、そこには5億年の記憶をもつ身体という人類共通のコードを通じて、直接的に喚起される何かがあるように思えた。
「宇宙を感じないか?」
身体の記憶というコードは宇宙に深く関連していると本書では繰り返し言及されている。期せずしてこの本に出会う前に、同じ学校の卒業生と話をする機会があった。その時に彼は私に「身体のコトを毎日やっていると、宇宙を感じないか?」と言っていた。正直、当時の私にはその言葉の真意が感覚的に理解できなかった。しかし、本書を読んでそのキッカケが見出せるような気がしている。
例えば重力だ。コーポリアルマイムの「オム・デ・スポーツ(運動系演技)」と呼ばれるカテゴリーでは肉体労働者やアスリートをモデルにした小作品が多く存在する。そこでは力強く重さがあり、地面に沈み込むような動きが多く取り入れられている。一方で「オム・デ・サロン(応接間系演技)」と呼ばれるカテゴリーでは、重力を感じさせない軽やかで機敏な動きが多く取り入れられる場合がありその差は一目瞭然だ(やっている側は両足レレベでしんどいが…)。
ふと、もし今後の未来で地球人が火星に移住して途方もない時間が過ぎ、人類が重力を忘れたら、コーポリアルマイムの表現は全く共感されないのではと思ったことがある。コーポリアルマイムに限らずだが、地球で生まれた表現には当然ながら重さ(重力)は強く関係している(それを見せる見せないの選択肢はあるが)。中でもコーポリアルマイムは自身の身体を用いた表現であるがゆえに、当事者としても重力との対話を通じて働きかけを進めていかなければならない。大げさかも知れないが、宇宙にいる自分を実感することでもあると思うのだ。
無個性という極地に向けて
本書を読んだ私の解釈では、芸術には、からだという人類共通のコードから見出される普遍的な美のようなものが存在するように思えた。コーポリアルマイムでは、力強くまっすぐ立ち上がった姿勢を「To be」と呼んでいる。何のキャラクター性もない姿勢なのだが、これもすこぶる難しい。やってみればわかるのだが、それまでの人生で培ってきたぬぐい切れない個性に気づかされるだろう。私は猫背で首が前に出やすくて、力いっぱい立とうとすると反り腰になる傾向が主にある。それをひとつひとつ消していき、ただただまっすぐ立つ訓練だ。しかし、まっすぐ立つことほど難しいことはないのではないかと思える。
もちろん、芝居において個性は大事にするべき要素だと思う。一方で、コーポリアルマイムでは、白紙のキャンバスを用意するところから絵(個性やキャラクター)を描き始めるような実直さがあるようにも思えていて私はそのまじめさが好きなのである。私個人の考えとしては、その個性を拭い去った細い芯の部分には純度の高い個性があるようにも思えているのだが...。
一方で、恐らくコーポリアルマイムというアートフォームが最終的に追及しているのはさらにその上の次元を行く、完全に個がない状態のように思えてきている。それは量産型のありきたりの状態を指した”無個性”という意味ではなく、「人間」そのもの表現しようとする壮大な試みのように感じる。誰もがそこに人間としての自分の本質を見出されるような、人間そのものを抉り出したような。まだ今の私はその極地が本当に存在するのかさえ分からないレベルだ。しかし、何にせよ最初は「To be」から始まる。地面に根を張り、重力を感じ、足の裏から骨盤、脊柱の湾曲から頭蓋のてっぺんまで意識をし、ただ立つ。途方もない試みだが、本書で書かれている「人体5億年の記憶」に耳を傾けることは、何かの足掛かりになるような、そんな気持ちもしている。
とにもかくにも、痔が再発しないように身体をいたわりながら、少しでも長くコーポリアルマイムを続けていきたいと思った現在時点のお話と、中学生ぶりの読書感想文でした。