『ギーク』
めずらしく素面でこの文章を書いている。
ま、どうでもいいのだけど。うむ。
今日のテーマは"ギーク"。
というのも、いまさっきから Netflix で『ギークガール』という海外ドラマを見始めたもんで、今日のテーマにちょうどいいかな、と。
ギークであること、オタクであること。
これがいわゆるファッションとして消費され出したのは、いつごろからだろうか。
00年代、思春期真っ盛りの青春時代。ぼくはオタクってことで、まわりからいじられていたことを記憶している。
当時はファッションにも興味がなかったし、外見も内面もそれこそオタク。
コミュニケーションをとるにも一苦労していたように思う。
学校では一部のオタク友だちと映画、音楽、漫画、アニメ、小説、ラジオについて、飽きることなく四六時中おしゃべりしていた。
10年代、ぼくは大学デビューに目覚めた。といっても、背伸びしたファッションをしていたと思うし、おしゃれかどうかはわからない。けれど、まわりも結局オタクばかりだし、自分自身さえないし、さえないからモテないし、それでも彼女はほしいし。だもんで、ファッションに関しても知らず知らずのうちにオタクになっていた。いまでは名が知れているけれど、当時新進気鋭のドメスティックブランドを買ってきたり、そのころに古着デビューもした。けれども、一般的にみれば、やはりぼくはオタクというレッテルから逃れられずにいた。
オタクに対する風向きが変わってきたのは、いつごろだろうか。
ぼくの個人的な見解だと、当時はじまっていまでも続いているフジテレビの”ノイタミナ”枠の功績は大きいと思うし(これでアニメが開かれたものになった)、ついで『新劇場版 新世紀エヴァンゲリオン』の公開も大きい、そしてついで『週刊少年ジャンプ』の漫画作品たちによる追い風。そうこうするうちにニコ生とか YouTube が出てきて、いろんなアニメ、漫画の切り抜きを目にする機会が増えたのも大きい気がしている。
20年代の今日では、オタクであること=おしゃれみたいな感覚の若者が多いこと。秋葉原も観光客が連日訪れるし、コミケなんてもはやテーマパーク。
ぼくはこの事実に未だ違和感を感じている平成を引きずった人間である。
ぼくはちょっとだけ物申したい。
ギークなこと、オタクであることは決してファッションじゃない。
けれども、開かれた文化となったことはうれしくもある。
なぜなら、昔はオタクであることを隠さないと生活できなかったから。
ぼくはいまでは大手を振ってオタクとして生活している。
なので、まだファッションにはなりえないカルチャーがあるけれど、
それらもきっと時間とともに開かれていくにちがいない。
なので、オタクの同志たちよ。安心して。