死刑制度 是か非か
死刑制度、あなたは賛成だろうか。反対だろうか。
私は賛成の立場をとる。ここでは私の1意見を聞いていただきたい。
まず、最近、麻原彰晃の死刑が話題になった。(この記事の初稿日は2018年7月17日)
それを受けて、欧州がツイッターにて「私たちは死刑制度に反対です。議論に参加しましょう」という旨のツイートを行った。結構炎上していたと思う。https://twitter.com/EUinJapan/status/1015094401297723394。そしてこの記事を書き直している現在でも、そのようなツイートは連日行われている。https://twitter.com/EUinJapan/status/1210118910927888384 日本においてそしてそれを批判するEU諸国といった構図で事あるごとに議論になっている。どのような論点が存在するのだろうかというのが、今回のテーマである。
死刑制度反対派の意見として、まず死刑自体が「残虐で非人道的だ」というものがある。人間だれしも生きる権利があり、殺人者同様、我々にも、その殺人者を死によって裁く権利はない、という意見である。
確かに私たち自身も、ときどき死刑囚の生活についての記事を見たり、聞いたりすることがある。以前、「森のアサガオ」というドラマがあったように、一般人がその生活について知る契機がないわけではない。毎日、いつ呼ばれるともわからない死におびえる囚人の姿は痛々しく、それを強いることすら残酷に思ってしまうほどにその生活は描かれている。「ダンサーインザダーク」という映画においても、死刑という制度が生々しく描かれ、その「命を奪う」組織としての刑務所の姿は見る人に衝撃を与えただろう。
ともかく、その「命を奪う」ことの非道であることを訴えているのが、「死刑反対派の意見である。
そして、死刑賛成派の意見。
他人の権利を侵しておきながら、自身ものうのうと生きることが許せないという意見。被害者や遺族の心中を察するにあまりある痛ましい事件も数多く存在する。被害者の無念のため、また、このような極悪人を活かしては危険という考え。これらが試験賛成側を擁護している。
さて、両者の衝突が始まると、まず反対派は言うだろう。「死刑は人道的ではない」と。
実際、私は6日付のドイツの5つの大手(新聞)ニュースの記事を閲覧した。
そのうちの全ての記事が、麻原の死刑を事実として述べるには飽き足らず、死刑制度を批判していた(残り一つは、事実を述べるにとどまる)。曰く、「オウム真理教の支持者の目には殉教として映るだろう。故に、第二の指導者を生む恐れがある(
die Zeit
や、DW.com
また、Spiegel Online
最後にWelt onlineから以下の文章を引用する。
Experten hatten in der Vergangenheit gewarnt, dass Exekutionen die Täter in den Augen ihrer Anhänger zu Märtyrern machen könnten.
ー「専門家たちは過去にこう警告した。犯人たちの死刑執行は、彼らの支持者たちの目には殉教者として映るだろう。」
と。更にはアムネスティー・インターナショナルの意見を引用し、「(死刑は)決して解決策ではない」とも述べられたものも存在した。
とにかく、他に方法があるのに、どうしてもっとも酷いやり方で以て解決せねばならないのか、と批判するわけだ。
それに対して賛成派。
「貴方たち欧州も、事件が起こったら即射殺でかなり非人道的なことしてますよね。殺さずとらえ、反省の時間を与える我々のやり方の方がまだ人道的だ」「殺害された被害者は大事な人に最後の言葉を残すこともできなかったんですよ。情状酌量の余地はない」などなど。
人道に問題があることをしているのはお前も同じだと言っているのが上の文、遺族の気持ちを酌量せよというのが下の文の意図するところである。このほかにも、「犯罪者に払う税金などない」といったような犯罪者にたいして厳しい目を向ける意見も存在した。この中では「被害者の気持ちを推し量れ」型が一番多い気がする。
今回、麻原氏の死を受けて、日本vs欧州の考え方の違いが浮き彫りになった。
しかし、まず私自身がが最初にツイートを見て考えたのは、「タイミングを考えろ」ということ。
例えば、「何気ない」タイミングでの死刑反対の意思表示ならそれも考え方の1つであろうと解釈することができる。
この時機での発言は日本のやり方に真っ向から反対の意を述べるということになり、無闇な対立を煽ることと何の違いもない。
今回のキーパーソンは麻原だ。
日本人にとってどれだけセンセーショナルな話題かを慮る余地はあったのでは、と考える。事実、外野だから楽な物言いはできるだろうが、我々日本人が彼の死刑を拒むということは、「彼自身を赦すこと」、すなわち「あの事件を赦すこと」となる。
倫理学的な物言いになるが、ルールというものはお互いの生存率や損得を考え、お互いが適度な縛りを受けて生活させるためにある。
そしてそれを侵すということは、もはや共同体に生きるのに危険な存在であると、自ら証明しているようなものなのだ。
同時に、人間を「赦す」というのは、一旦その人間が行った悪事を認めつつ、それが再発する可能性にも留意しながら、生かしておくという意味である。
つまり、その事件が赦せないものであるほど、対象に残された選択肢は「死」しかないのだ。
「日本人」は彼らを決して赦さない。死をもって償う以外の方法がない。と判断してそれを履行したというわけ。
我々の意見は「人間の学」つまり「倫理」に基づいている。日本人は無宗教だとよく言われているが、このような考え方の多くは日本の神道に由来している(「日本人なら知っておきたい神道」を参照していただけると詳しく載っています)。和を重んじる、この信仰ともいえる強い連帯意識。それを守ることにかけては他の宗教よりも「個」の色を見せない。だが、一旦これが破られたら我々はその人を決して赦さない。「和」を乱すものへの日本人からの視線はかなり痛いものだ。
対して、彼ら(欧州)の意見は「道徳」に基づいている。
これは、定言命法で「人を殺してはいけない」とするもの。各々の生命の存続のためには、例え親が殺されようとも、無条件で「殺してはならない」という縛りが人を拘束し、そこで憎しみの連鎖を断ち切る、という結果が得られる。
言い換えるならば、「倫理」対「道徳」の戦い。
「自分たちが非人道的なことやっといて何言ってんだ」というのは典型的な「倫理的な物言い」で、「それとこれとは話が別だ。死刑はまずもって廃止すべきだ」とする「道徳的な物言い」と根本的に食い違う。
結論、解決するのが難しい問題なのだ。
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